「どうやって情報を取るか」の第二回は“新聞”を取り上げよう。新聞といっても種類が多いということだ。日本では全国紙だけで5紙(地方紙、地域紙も多い)もあるということ以上に、新聞社は紙とは別に“ネット展開”しており、紙とは別物の「新聞社のネットサイト」もある。しばしば同じだと思う人がいるかもしれないが、私にとってこれは大きく違う。その理由はあとで説明する。
紙としての新聞
これは昔ながらの“新聞”である。朝刊は朝、夕刊は夕刻に配達されるが、人によっては片方、または両方を駅売りで買う人もいるだろう。紙の新聞の特徴は、何といっても「締め切り時間」があることだ。朝刊は一番印刷所に近い地域(主に大都市やその近郊)で午前1時30分過ぎ。それをやや過ぎても速報を入れることはあるが、一応の目安はそうだ。印刷所に遠い地域の新聞の締め切りはもっと早く、場所によっては午後の11時というところもある。夕刊も同じ原理で、昼ごろが締め切りである。
ということは、朝刊の場合は締め切り以降に起きたこと、例えばニューヨーク株式市場の引値(米東部の午後4時 日本時間の午前5時=夏時間は午前6時=標準時)などは決して日本の朝刊には載らないということだ。スポーツも事件もそうだ。そういう意味では、締め切り時間がある紙の新聞は、常に最新情報が流れるネットに比べると新鮮度での劣勢は否定できない。だからこそ世界中で販売部数の減少、広告需要の低下などの問題に直面している。米国などを中心に紙の新聞は深刻な経営難に直面しており、その先行きを懸念する向きも多い。
しかし筆者は紙の新聞を決して手放さない。今でも家で紙の新聞をいくつか取っている。ネットの方が素早い情報収集ツールであることを認めてもだ。その理由は三つある。
- (1)携帯性
- (2)一覧性
- (3)記録性
「携帯性」とは持ち歩きが楽だ、ということだ。最近は携行して持ち歩けるiPad などのツールが出てきて少し様子が違ってきているが、なにせ新聞は軽い。さっと手に持てる。PCなどコンピューターはそうはいかない。ケータイで新聞を読むのは何か狭い画面をのぞき込んでいる印象がして嫌だという意見もある。iPad は携帯性はあるが、電波の飛んでいないところでは使えない。新聞はどこにでも持ち込める。
「一覧性」とは、紙の新聞が見下ろせることからくる。新聞を手に取ったとき、ページをめくったときに、紙の全体が視界に入ってくる。「さっと全体が見られる」というのが紙の新聞の一覧性だ。かつ重要なのは、ニュースの配置だ。どのニュースが大きくて、どのニュースが小さく扱われているのか。それは新聞社の価値判断で、各紙によってかなり違う。新聞社の人々はニュースの達人なので、各紙とも扱いが大きければ、それは重要ニュースだ。そういう社会的客観性がある。世の中もそれを概ね受け入れる。日本のテレビには、新聞の記事をベースに作っている番組が多い。ニュースの価値に関する基準は、やはり多くの記者を抱える新聞社が持っている。
このことに批判的な人は、「それはあくまでも新聞社の価値判断だ」と言う。それはその通りだが、市場を見ている人間にとって重要なのは、「世の中全体がその問題を大きく扱っているか」が新聞で分かることだ。ニュースの価値判断は別にして、新聞を見れば、それぞれの事件に関する世間の一応の見方は分かる。それが正しいか、そうでないかは別だ。ネットはそうはいかない。大体においてニュースは新しい順に上から並べた羅列だ。新聞のように「(見出しが)何段」なんていう基準もない。一覧性は紙の新聞の大きな特徴だ。
「記録性」はむろんネットにもある。データのフォルダを作って、「名前を付けて保存」すればいい。しかし、こうして取っておいた資料を私はあまり使った経験がない。なぜなら、今のネットでは検索サイトが充実しているので、自分のPC内のデータ庫や資料庫をひっくり返さなくてもネットに常に潤沢にある。対してよく使うのは、サッと出来る新聞の切り抜きだ。なにせ軽いし、積み重ねなければすぐに見つかる。手がちょっと汚くなるのは仕方がない。新幹線の中でもそっくり返って読める。これは便利だ。
新聞社の運営するネットサイト
新聞社が展開しているネットサイトでは、筆者は「今」を読み取ろうとする。ニュースも最新だし、紙の新聞を契約して全紙読もうと思ったら経済的にも大変だが、ネットではほぼ無料で地方紙を含めて全紙を簡単にサーフィンできる。これが重要だ。
朝早く起きたときは、新聞社が意図的に午前3時ごろにアップする“特ダネ”に目を光らせる。あまり早く載せると他社に後追いされるので、新聞社は大体において、(朝刊での)後追いはもう無理という午前3時ごろにその日の朝刊の特ダネをネットに載せる。ネットをしっかり見ている人もいるから、「この新聞は遅い」と思われないためにはそのくらいの時間に載せないといけない。だから、私は比較的朝早い時間のネット新聞は見る。
新聞社のネットサイトには、紙の新聞に載っていない記事が載っているケースもある。ネットには紙面制約がないためだ。特に日経新聞のようにネットサイトを一部有料化した新聞社は、紙の新聞には載せなかった長い分析記事などを、意図的にしばしばネットに載せる。それが面白いのだ。
将来は、紙とネットは同じ新聞社が作っていても全く別物になる可能性があると筆者は見ている。残せる記事とデータの量が全く違うからだ。将来の差異は別にして、非常に重要なのは、新聞社が出している紙の新聞、新聞社の展開しているネットサイトは、多くの人に“信頼”されているという点だ。ネットの時代に入っていろいろなニュースサイトが出てきたが、多くの記者を抱える新聞社の取材力には及ばない。やはり多くの記者の経験の積み重ねが新聞社のベースになっていて、それは非常に強固である。
同時に、日本の新聞を批判的に見る
しかし、その一方で筆者は自分の視点をグローバルにするためにも、日本の新聞の視点の偏りや欠落を補うためにも、なるべく海外の新聞、具体的には
などのサイトをのぞく。加えてホテルなどにこれらの海外の新聞が置いてあるときには、時間がある限り一覧する。
なぜそうするかというと、まずはニュースの漏れをなくすためだ。相場は世界のニュースで動いている。日本の新聞が興味を示さないニュースを海外の新聞で漏らさず見なくてはならない。日本の新聞には載っていないようなニュースや、ニュースの視点が海外の新聞にはあり、読んでいて楽しいし、役に立つ。
日本の新聞を読んでいても世界の主流のものの見方は身につかない。日本の人口は世界60億の中で1億ちょっとに過ぎない。世界には、日本人ではちょっと考えが及ばないような多様な見方があり、それが主流であることもある。日本の典型的な見方とは別に、「世界はどう考えているか」を知るには、やはり世界の新聞を読まなければならない。その意味で、若い人には早くから海外の新聞も読んでほしいと思っている。
それは世界の見方を多様に自分の中に入れ、世界の出来事を複眼的に考えるためにも必要である。捕鯨問題は極端な例だが、日本の見方とはかなり違うケースもある。また思考プロセスも違う。善し悪しの問題ではなく、だ。その視点や思考プロセスの“差”そのもの、そして“差”が存在することを知るのが重要なのだ。(続)