1. 金融そもそも講座

第41回「政策と説明責任」

今回は、「政策と説明責任」という問題を取り上げようと思う。というのも、政策を実効的なものにするためにも、「説明が絶対的に必要な時代になった」と思うことがいくつもあったからだ。金融政策、経済政策でもそうだ。

バーナンキ議長の説明

まずこのシリーズのタイトルになっている“金融”での動きについて述べる。最近、一番興味深かったのは米国の中央銀行である連邦準備制度理事会(FRB)の方針転換だ。FRBは年8回、政策決定の会合を開く。一般的に“FOMC”と呼ばれているものだ。これまでは声明に関して記者などを集めて「なぜこういう政策を決めたのか」といった説明はしてこなかった。「発表する声明を読んでくれ。敢えて説明はしない」という方針だった。特に前任のグリーンスパン氏は“謎解き”を楽しむような雰囲気があって、彼が講演などで使う米国人にとっても難しいような単語の意味合いを含めて、「こうではないか」「いや、ああではないか」といったゲスゲームを展開していたような状況だった。

しかし、バーナンキ議長は前回4月末のFOMCからこのスタンスを180度転換した。この声明(http://www.federalreserve.gov/newsevents/press/monetary/20110427a.htm)を発表した直後に、自ら内容を解説し、内外の記者からの質問に答えたのである。記者会見は1時間弱に及んだ。私はこの日本時間早朝の記者会見をずっと見ていたが、何事においても説明責任が求められる、そして説明した方が政策効果が上がる時代に入ったのだな、という印象を強くした。今回のFOMCでは、「果たしてFRBが超金融緩和(QE2)を6月末で終わりにするのか、その場合ゼロ金利政策はどうするのか」に関して、市場の注目が非常に高かった。

この注目の高さ故に、せいぜい5パラグラフの声明では、いろいろな憶測、間違った解釈、見込み違いの予測が出かねない状況だった。FRBはこれに機先を制したのである。実に難しい意志決定のはずで、本人からの説明がなければ、ああでもない、こうでもない、という記事を書かれそうな複雑な問題だったが、バーナンキ議長が自ら説明したが故に、その後のFRB批判は弱かったように私には思えた。つまりFRBの「説明」戦略は成功したのだ。

なぜ浜岡だけ

政策の説明責任で逆に大きな問題を残したのは、東日本大震災後の原子力政策に関連して、菅首相が静岡県の御前崎にある浜岡原子力発電所の当面の停止発表を行ったことだ。この会見で首相は、「予想される東海地震領域の真ん中に浜岡原発が存在する」という理由を挙げて、より大きな津波を想定した防潮堤が約2年後に完成するまで「中部電力に浜岡原子力発電所の停止を求める」と記者会見で発表した。

しかしこの発表は、「(大地震や津波に関して)“想定”が東日本大震災で崩れた後なのに、なぜ浜岡の防潮堤は“想定”が通用するのか」「2年後に再開できるのか」「他の原発も地震や津波の被害が予想されないのか」「原子力推進でやってきた国全体のエネルギー政策はどうするのか」「計画停電が必要になるのか」「中部電力が東京電力に融通していた電力はどうなるのか」「浜岡を止めた後の電力はどう確保するのか」など、いくつかのポイント、さらにはエネルギー政策全般に関して国家戦略にかかわる説明が欠けていた。

その後さらに驚いたのは、国家にとっての大きな戦略を決めるにあたって、自ら任命した玄葉国家戦略相にも、民主党の政策調査会にも「なんの相談もなかった」ことが後で明らかになったことだ。つまり政策そのものの妥当性は置くとしても、自らの周囲にも、そして国民にも説明がなかったということが明らかになったのだ。浜岡原子力発電所の停止に関しては、「良かった」とする国民が多いし、私もそう思う。しかし、電力という我々が享受している豊かさの源に関する重要決定なのに、その大きな哲学的、思想的、政策実効的、そして社会的・経済的な影響に関して総理の言葉で説明がなかったのは、多くの人を不安にさせたと思う。

菅首相は言葉が足りなかったと思ったのか、数日してまた記者会見を開き、「国家のエネルギー戦略の柱に、太陽光・風力など自然エネルギーの開発も入れる」と発表したが、後付の説明だっただけに、多くの人の心に響くことはなかったように思う。政策を発表するときに、「なぜか」「これからどうなるのか」「それをどうするのか」ということを全体的に説明していれば、米倉経団連会長に「(菅民主党政権は) 思考の過程がブラックボックスだ。政治の態度を疑う」とまで言われずに済んだはずだ。これは失敗例だ。同じ決定でも、説明があるのとないのと、そして説明がうまいのとそうでないのと随分違うということが分かった。

なぜ非武装の人間を

もちろん常に米国が成功していて、日本が失敗しているわけではない。例えば最近パキスタンで米国は自らの軍隊を使い、パキスタンの当局と相談なしに、9.11の首謀者と非難してきたアルカイダの頭目であるウサマ・ビンラディンを射殺した。これは大きなニュースになった。最初の報道は、「銃撃戦の末」というものだった。

しかしその後、「ビンラディンは殺されたときに武装していなかった」という説明になり、どうやら家族の前で米国の兵士が射殺したという話になってきている。随分と説明が変わってきた。それでも9.11で家族を失った数千の家庭を抱える米国では、「よくやった」との見方が強い。しかしビンラディンの何人かの子供は、「米国の行為は国際法違反」と訴える意向を示しているし、アラブ世界を中心に米国のやり方、説明不足に反感が強まっている。オバマ大統領の支持率はビンラディン射殺で少し上がったが、「実際は何が起こったのか」が今後さらに明らかになる中で、せっかくの成果がむしろ重荷になる危険性もある。やはり最初から正確な説明が必要だったのだ。

「政策と説明」「行ったことと、それに対する説明」の話をしていくと枚挙にいとまがない。しかし言えることは、これだけ情報ツールが普及してくると、「説明しなくても誰もが納得してくれることなど無くなった」というのが筆者の実感である。昔だったら、「政府がやることだから」「お上の沙汰(さた)」で納得していたことが、今では誰もが「なぜか?」と思い、さらにそれを追求しているメディアを見て様々な意見を持つ。もはや説明がなかったら、政策の効果、行動の正当性は担保されない、ということだ。時には説明力の方が、重要になる時代になったともいえる。これは政策を動かしている人間にとって重要なことだ。

ご注意:本コラムは、上記掲載日から1ヵ月程度前に伊藤洋一氏が執筆されたものです。
閲覧される時期によっては、現状に即さないことも予想されます。また、内容には仮定に基づいた記述も含まれます。ご了承ください。

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