昭和3年(1928年)
大正12年9月1日に発生した関東大震災で、銀座は焼け野原になった。 資生堂も店舗、製造施設、倉庫の一切を失い、壊滅的な打撃を受けた。これにくじけず、郊外の倉庫にあった石鹸を売り歩いて当座をしのぎ、大阪の卸部に小規模な製造施設を急造した。11月には銀座にバラック店舗を建てて営業を再開した。バラックといえども、川島理一郎デザインになるパリのカフェ風の洒落た建物は、今も語り草となっている。主要顧客の住む山の手の被害が少なかったのも幸いだった。
翌13年春、創業者 福原有信は、復興を見ぬままに逝去した。 この年、チェインストア向けPR誌『資生堂月報』(『花椿』の前身)が創刊された。創刊号には、美容健康記事だけでなく、婦人手袋の流行、コーヒーの入れ方、獅子文六と菊池寛のエッセイ、巴里通信など、多彩な記事が掲載されていた。