1. 先駆者たちの大地

先駆者たちの大地

資生堂創業者 福原有信・初代社長 福原信三

1872~1893年 “和魂洋才”のスピリット

明治5年(1872年)、新橋~横浜間の鉄道開通とともに、洋風煉瓦づくりの銀座の街並が整った。洋食屋、パン屋、洋服屋などのハイカラな店が並び、煉瓦敷きの舗道を断髪洋装の男女が闊歩した。ちなみに“銀座の柳”は明治中期からで、当初は松、桜、楓の街路樹だったそうだ。

この年、資生堂も日本初の洋風調剤薬局として出雲町(現在の銀座七丁目)に創業した。創業者の福原有信は、嘉永元年(1848年)、安房(千葉県南部)の郷士の家に生まれた。漢方医を祖父にもつ有信は、17歳で江戸に出て、織田研斎のもとで西洋薬学を学んだ。その後、幕府医学所に入り、明治維新後は大学東校(東京大学医学部の前身)に学び、海軍病院薬局長に就いた。
有信は、その地位に安住することなく、医薬分業の実践を志して資生堂を開業した。世間に粗悪な薬品が多いことを憂えて、高品質な薬品を供給したいという望みがあった。この時、弱冠23歳であった。
“資生”とは、易経の“至哉坤元 万物資生 乃順承天”に拠る。
「地の徳はなんとすぐれているのだろう。万物はここから生まれている」という意味である。商号にこの資生を掲げたところに、東洋的な精神と西洋科学を融合しようという“和魂洋才”の理念が見える。しかし、開業当初は高価な薬品ばかり扱ったため、経営はかなり苦しかった。

福原衛生歯磨石鹸

『福原衛生歯磨石鹸』
普通の粉歯磨が2~3銭のところ25銭もした。

明治11年から、『けはへ薬 蒼生膏』、健胃強壮『ペプシネ飴』などの製造販売を開始した。当時の広告には横浜、名古屋、京都、松山などと記載されているので、取次店は順調に全国に拡大したようだ。明治21年には、日本初の練歯磨『福原衛生歯磨石鹸』を発売した。従来の歯磨粉は、焼き塩や房州砂に香料を混ぜたものにすぎなかった。『福原衛生歯磨石鹸』はその10倍の値段だったが、歯石・口臭除去の効能が支持され売れ行きは上々だった。内国勧業博覧会では褒状を受けた。
明治26年発売の『脚気丸』は、海軍の兵士に脚気が多いことから“食物の配合不良説”を唱えた海軍軍医総監の高木兼寛説に基づいて開発された。本邦初のビタミン剤だったと推定されている。その後、高木が開設した東京病院の薬局経営を任されたことで、資生堂の名はさらに高まった。

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IRマガジン1998-9年12-1月号 Vol.35 野村インベスター・リレーションズ

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