1. 金融そもそも講座

第74回「大陸的粗雑さ PART1」大陸的な粗雑さとは? / 歴史の所産

8月末から10日間ほどウルムチ、トルファン、タシケント、サマルカンドなどを訪問した。シルクロード華やかなりし頃を彩り、今でも地域経済活動の中心になっている街々だ。日本との違いは大きく、日本経済を考える上でもよいきっかけになったので、今回から数回にわたり「世界における日本経済とは何か」を視点に文章を書きたい。大きく見れば金融市場のありようとも関連していると思う。

大陸的な粗雑さとは?

今回の旅で確信したことがある。日本と比べた場合、「大陸には独特の粗雑さがある」というものだ。昨年シベリア鉄道でウラジオストックからイルクーツクまで4日ほどかけて移動して、さらにサンクトペテルブルクに飛ぶというロシアの旅をしたときにも感じた。今回もユーラシア大陸の内部深くまで旅したわけだが、いろいろな建物、道路などを見るたびに「ここもそうだ」と思ったのがこの“大陸的粗雑さ”である。具体的に列挙する。

  • 1. 建物や道路の細かい作りが粗い
  • 2. 建物の柱の何本かはずれており、ドアがゆがんでいることもある
  • 3. 地元の人が「高速道路」と呼ぶ道路の凸凹が激しい
  • 4. 壁にかかっている絵が曲がっていても誰もなおさない
  • 5. レストランのテーブルはしばしば砂だらけで、布巾で拭くと汚いことが分かる
  • 6. 従業員のサービスは総じてぶっきらぼうである

中国の新疆(しんきょう)ウイグル自治区、タジキスタン(乗り換え)、ウズベキスタンと合計3カ国を移動したが、そうした粗雑さは空港でもどこでも同じようなものだ。建物はどこかくすみ、日本人の目で見るとアラが目立つ。目地が凸凹しているのは当然だし、しばしば柱の石組みがずれていて「この建物は大丈夫だろうか」と思った。ロシアの旅でもそれを頻繁に発見した。イルクーツクで泊まったホテルのドアはゆがんでいて持ち上げるようにして閉めないと、うまく入ってくれなかった。それはユーラシアという大きな大陸の中にある国ではしばしば見られる現象なのだ。

必要性は満たす

粗雑さというと悪い印象を受けるが、必ずしも悪い意味ばかりで使ってはいない。大ざっぱではあるが必要条件は満たしている。道路の凸凹はひどいが、一定程度の速度では走れる。多少目地がゆがんでいても、柱にずれがあっても、建物は相変わらず建っている。レストランのテーブルも汚ければ拭けばよいし、食事そのものに影響はない。

もっとも究極のケースにおいては“大陸的粗雑さ”を持つ建物は危ない。ウズベキスタンの首都、タシケントで面白い話を聞いた。1966年の同地を襲った大地震の際、市内のほとんどの建物は倒壊したが、一つだけほぼ無傷で残った建物がある。それはナボイという劇場(市の中心部の立派な劇場)で、主に建設したのはシベリアに抑留されていたが劇場建設のためタシケントに連れてこられた日本人捕虜だという。その劇場は我々が泊まったホテルの正面にあって、修理中だったが今でも立派に使われている。だからウズベキスタン、特にタシケントでは「あの劇場を建てた日本人」ということで日本人の評価は高かった。

一説には“震度8”ともいわれる大きな地震が来たから分かったことだ。大陸的粗雑さで作った建物もそれまでは建っていて使えていた。「(通常においては)使うことができていた」というのが大事だ。この地震にも耐えたというのは、常時においては“不必要に堅固”な建物だったともいえる。昨年はシベリア鉄道に乗り、今年は中央アジアを歩いてみて、この地の人々の伝統の中で育んだ考え方が分かったような気がした。ある意味、合理的なのだ。ある程度、粗雑に作ることはコスト削減に役立つし、短時間で作れる。

何でもそうだが、物事には二面がある。例えば「鈍感」には悪い語感があるが、一方で“鈍感力”という鈍感を評価した単語もある。一つの事に打ち込めば他がおろそかになる。つまり「何かをなすには“鈍感力”が必要だ」ということになる。

私が感心したのは、ユーラシア大陸において大陸的な粗雑さの特徴を残す建物群(例えばサマルカンドのレギスタン広場)も、その配置と構成は実に素晴らしいことだ。それは人々を魅了する。この地に生きた民族の構想力、具体的には支配者(例えばティムール帝国のティムール)の力の誇示の仕方がうまくできている、ということだ。近づくとアラが目に付くが、遠くから見れば実に荘厳できれいなのだ。

歴史の所産

なぜ外観的荘厳さと細部の粗さが同居するのか。それは歴史が培ったものだと思う。彼らには何が大事だったのか。中央アジアの歴史を見れば、そのかなりの土地で200年、300年ごとにその地を支配する民族が入れ替わっていることが分かる。あるときはイラン系、あるときはアラブ系、モンゴル系、中国、ロシア。その多くの入れ替わりにあたって殺りくと破壊があり、時には民族が融合した。それはそれはすさまじい歴史だ。

ユーラシア大陸で一番重要だったのは、自身の、家族の、そして一族郎党が住む街の安全だ。ユーラシア大陸の都市はそのほとんどが城壁として発達している。サマルカンドも紀元前の昔から城壁の街として発達した。皆がそこに住み、いつくるか分からない敵に備えた。欧州では「○○ブルク(例えばハンブルク)」の“ブルク”というのは城壁だ。何よりもセキュリティーが大事だったと思われる。その次は水であり、「安全と水」が確保されて初めて人々の生活があったと思われる。

日本にも城はあるが、そこに住んだのは殿様、その近習、そして奥座敷だけで、一般住民はいつも城壁の外だった。住民を守る城壁はないのが普通だった。ユーラシアの城壁には街全体が入った。そこが違う。ユーラシアでは主に異民族から襲われるから、人の命と財産を守るには街全体を守る必要があった。

そうした必要性がある所では、「細部」などは重要でない。「大枠と機能」が重要なのだ。機能重視、細部にはあまりこだわらない道路、建物があればよい。日本人である筆者はそれらを見ると「大ざっぱだ」「粗雑だ」と考えるが、それは地理的条件、セキュリティー条件に合っていたのだと思う。ロシアの場合は「冬がすぐ来る」という建設可能期間の短さの問題もあった。

城壁を作り、水を確保しても招かざる敵は襲ってきた。サマルカンドはモンゴルによってほとんど破壊し尽くされ、街全体が砂地になったといわれる。その街をきれいに再建したのがティムールだが、砂地、砂漠の中の都市だけにずっと傷みがひどかった。メドレッセ(神学校)などの尖塔(せんとう)は曲がり、建物にはひびが入った。今でもそれを修復しながら使っている。レギスタン広場にそれを見ることができる。(

ご注意:本コラムは、上記掲載日から1ヵ月程度前に伊藤洋一氏が執筆されたものです。
閲覧される時期によっては、現状に即さないことも予想されます。また、内容には仮定に基づいた記述も含まれます。ご了承ください。

バックナンバー2012年へ戻る

目次へ戻る