金融そもそも講座

一服状態に向かう世界の金融情勢

第336回 メインビジュアル

前回は筆者のサンディエゴ訪問から見た米国経済の現状を報告したが、今回は少し俯瞰(ふかん)的に見た世界の金融情勢の現状と今後の見通しに触れてみたい。前回原稿アップ後に世界の金融シーンで起きた一番大きな変化と言えば、日本の金融政策が動いたこと。それを受けて世界の金融市場は一時大きく揺れた。

「日本の金融政策が動いた」とは、日銀が(公式サイト)で述べているところの「イールドカーブ・コントロール(YCC)の運用の柔軟化」を指す。この内容をほぼ正確に日経新聞が発表当日の7月28日午前2時10分にサイトで報じた。結局、当該日朝刊一面トップ記事になるのだが、既にサイトアップの段階でニューヨーク市場は大きく動いた。

まず激震が走ったのは為替相場で激しく円高になった。ニューヨークの株価も「世界の資金供給の源(日銀)が蛇口を閉めるかもしれない」との判断もあって反落。しかしその後はむしろ円安が進んだり、日米で株価も反発したりしている。それは何故か。「そもそも」的に、一体日銀が打ち出した政策は何を意味するのかを検証したい。

一方ECBは0.25%の利上げを続け、FRB(米連邦準備理事会)は利上げを再開した。全体的に見れば世界の中銀はインフレ警戒の姿勢を崩していないように見える。しかしマーケットの視点は、それとは少し違う方向を向いている。

日銀の新政策

日銀はサイトで政策変更の理由と狙いをこう述べている。

  • 1.2%の「物価安定の目標」の持続的・安定的な実現を見通せる状況には至っておらず、粘り強く金融緩和を継続する
  • 2.経済・物価を巡る不確実性がきわめて高い中、YCCの運用を柔軟化し、金融緩和の持続性を高める

筆者は、午後3時半から始まり1時間弱に及んだ植田総裁の記者会見を全部聞いた。全体的に分かりにくかった。しかし一つだけ明確になったのは、日銀の新スタンスは一時マーケットが早とちりした「FRBやECBに続いて日銀も金融引き締めに動くのか」といったものではないことだ。日経新聞記事のネット配信からニューヨーク市場が大きく動いたのは、そうしたイメージがあったからだ。

実は日経の記事も良く読むと極めて慎重な書き方をしていた。しかしマーケットは即判断・即行動が原則だ。しばしば見出しで動く。その見出しは「日銀、金利操作を柔軟運用 上限の0.5%超え容認案」となっている。この見出しだけだと、日本の金利が1.5%とか2.0%とかに上昇するようにも受け取れる。上限がないからだ。

しかし日経の記事には書き込まれていなかった唯一の事実がある。それはサイトで見ると太い赤線が引かれている「1%」という上限の存在だ。つまりそれは長期金利(10年債)の上限が「0.5%メド」(植田総裁の言葉)であることは今まで通りだが、「そのメドを超えても1%まではマーケット環境によって許容する」というものだ。つまり1%以上は押さえ込む、それ以上は行かさないということ。

実際に日銀の政策決定会合後の日本の長期債(指標10年債)の動きは、時に上昇して0.5%のメドを超え、0.6%アラウンドとかになっている(執筆時点)。しかしそれは円相場を大きく円高に動かすような大きな政策変更だろうか。多分ノーだろう。声明文にも「YCCの運用を柔軟化し、金融緩和の持続性を高める」と明確に書かれているし、日銀新政策の大前提は「粘り強く金融緩和を継続」ということだ。

高インフレの背景

0.5%の日本の長期金利上限が二倍の1.0%になったのは「やはり大きい」という意見もあるだろう。しかしそもそも世界主要国(特に米国)の政策金利が5%を超える水準に来ている今の段階で、その許容上げ幅(0.5%)は小さいと言えるし、その後の日本の長期金利の推移を見れば1%の上限に届かないところでおおむね推移している。日銀金融政策会合後の円安・株高は、「緩和の基本線は変わらないんだ」と確認したからだと言える。

世界の主要国中銀の中で今「利上げモード」が一番強いのはECBだ米国より引き締めに入るのが遅れた上に、現状のインフレ率は米国より高い。故の「利上げモード」継続だ。多分ECBは統計の出具合次第だが、今後も利上げマインドを保ち続けるだろう。

一方の米国の金融政策は微妙な段階に差し掛かっている。利上げを据え置いた6月のFOMC(米連邦公開市場委員会)後の記者会見で「年内あと2回」と述べたパウエルFRB議長は、7月のFOMC後の記者会見では「今後は統計の出具合を見て」としか言わなかった。「あと1回」とは言わなかったのだ。次回のFOMCは9月の19〜20日で少し間が開くという事情はあるが、何よりも重要なのは米国のインフレ率が大きく低下している事実だ。

直近の一部統計では3%を下回ってきている。取り上げる統計にもよるが、「米国の物価上昇率は、日本のそれより低い」状況なのだ。3%でも確かに長期目標の2%より上だ。しかし重要なのはモメンタム。パウエル議長が「あと1回あるよ」と明言できなかったことには理由がある。

しかしでは米国のインフレ率が利下げを促すほどにさらに低下するかと考えると、それも無理だろう。それは後述するが、今の世界の地政学的環境、全体的な取引(貿易)関係に依拠している。マーケットの一部で出た「年内に利下げがあるかも」という見方は、現状では可能性として小さい。

となれば一端円高に動いた為替相場が急激にその後円安に移行し、フィッチによる米国国債格下げの報道までは株価が堅調に推移したことには十分な理由があることが分かる。同格付け会社の今後の動きについては今回以降の原稿に委ねる。

今後の見通し

では何故今後の米国のインフレ率が下げ続けることはない、と考えられるのか。それは世界的なデフレ懸念まで生じた頃に比べると、今の世界にはあちこちに自由なモノ、カネ、ヒトの動きを遮る分断が出来てしまったからだ。そもそも世界的な物価の下げは、世界全体を覆う市場経済・開放経済の結果だ。世界の企業は人件費の安いところを探して工場を作り、最安の流通経路を選んでモノを運び、最安値で売った。それを加速したのはデジタル化だ。

しかし今盛んに使われる単語は「分断」だ。大きく見れば、世界はウクライナを支援する西側中心の諸国と、ロシアを支持する権威主義国家群に分断されている。米国と中国の貿易量を見れば実はそれほど分断がディープに進行しているわけではない。しかし半導体、希少金属、穀物、エネルギーなど基幹技術・枢要商品の分野では確かに「分断」がある。

それが何を意味するかと言えば、かつてのような市場・開放経済の普遍化のもとでの「物価下方圧力」には歯止めがかかると言うことだ。多くの西側企業は、投資適格国の地位を自ら放棄しつつある中国への投資に及び腰だ。中国は世界の企業にとっての「安価な生産基地」ではなくなりつつある。

故に中国経済は減速し、それが世界的なインフレ圧力の一段の上昇には歯止めがかかる。一方で、今の世界を見ると「とにかく一番安く出来るところに工場立地を」という動きには歯止めがかかった状態。これは世界的な物価下落圧力を緩和する。

一連の動きが何を意味するかと言えば、デフレを心配しなければならないほどの自由・開放経済には戻らないが、非先端技術・枢要商品以外の貿易は引き続きかなり活発に行われるので、「分断」によって世界のインフレに歯止めがかからないほどにはならないという事だ。それはGoldilocks Economy(適温経済)という単語を思い起こさせる。

多分、戦場を抱える欧州は別だ。しかし日本と米国はそうなる可能性がある。

ご注意:本コラムは、上記掲載日から2週間程度前に伊藤洋一氏が執筆されたものです。
閲覧される時期によっては、現状に即さないことも予想されます。また、内容には仮定に基づいた記述も含まれます。ご了承ください。