金融そもそも講座

マーケットの急展開とトランプ次期大統領

第175回

マーケットとは何か、何を誘因に動くのか、を考える上で、今回の米大統領選挙ほど格好の材料になったものは珍しい。トランプ当選などまずあり得ない、そうなったら一大事なので急速な円高が起き、世界は混乱して株価は二割ほど調整する…といわれていた。しかし大本命のヒラリー・クリントン氏を破ってドナルド・トランプ氏が実際に当選すると、時間を置かずに株価は上昇。ニューヨークのダウ工業株30種平均は連日の史上最高値更新となった。一方、円は急速に円安に。多くの市場関係者を戸惑わせる事態が起きたのである。何があったのか。暴言、誹謗(ひぼう)を連発する次期大統領のどこを、マーケットは評価したのか。そして今後はどうなのか。そのあたりをそもそも講座的に解説してみたい。

社会的倫理とマーケットの論理

多分そこには、“社会的・常識的な倫理”と“マーケットの論理”の混在があった。倫理とは、女性にそしてマイノリティーにあのような暴言を吐き、人種間の敵意を煽(あお)る人物は大統領になるべきでないというものだ。それは今でも我々の中にあるし、「Not My President」の運動を続けている人々には特に強くある。そしてその、ある意味当然の倫理観が、トランプが選ばれれば相場は大波乱になり株価は下げるはずだという見方につながったと思われる。選挙前の相場の動きは、クリントン氏有利が伝えられると上げ、トランプ氏が盛り返すと不安感からか、下げた。

しかしトランプ次期大統領が決まると、倫理観は残しながらもマーケットの関心は、では実際のところ彼はどのような大統領になるのかという点に移った。それは倫理よりもマーケットの論理の方が重要になるやむを得ない瞬間だ。なるべきでないという倫理観は、“言ってももう詮無いこと”となり、トランプ氏がマーケットに何をもたらすのかという視点がもはや重要となった。

最初に入ってきたのは二つの事実だ。それは第一に、選挙人の獲得数ではトランプ氏の圧倒的な勝利であり、かつ議会の上・下院両方を共和党が抑え“政権と議会のねじれ”が解消されて、大統領の政策がスムーズに通る見通しが出てきた。さらにクリントン氏も素直に負けを認めたし、当選後のトランプ氏の勝利宣言が選挙前と比べて融和的であり、穏当な共和党大統領になるかもとの期待が高まった。

選挙でどちらが勝ってもごたごたするという事前の予想を覆して、あまりにも素早く、次の米国の政治シーンは「大統領も両議会も一つの政党の支配下に入る」という整頓された形が確定した。

二つの側面

そこでマーケットが改めて考えたのは、トランプ氏は一体何をする人かという点で、見えてきたのはトランプ氏の二つの顔だ。それは、“インフラ投資”と“規制緩和”。陣営やトランプ氏本人が決めるよりも前に、マーケットは、新政権の経済政策の主要な方向性をその二つと予測して機敏に動いた。

インフラについては、トランプ氏の熱意は選挙公約を見ても分かる。その規模は1兆ドルに達するとされる。空襲と敗戦で戦後に社会インフラの作り直しを迫られた日本と違って、米国のそれは本当に劣化が激しい。トランプ氏が「America’s Infrastructure First」としている政策は、経済成長を速め、そして彼を支持した白人労働者に職をもたらす可能性がある。株式市場がそれに反応するのは、トランプ氏の勝利が予想されていなかった分だけ大きかった。

今の世界でインフラへの投資を一番行っているのは中国だ。例えば米国では1995年以来、新空港の建設はゼロともいわれるが、中国では近年の空港の増加は目覚ましい。もし米国が本腰を入れて道路、橋、学校、通信設備等々のインフラ投資をするとなると、世界第1位と2位の国がともに「インフラ投資重視」の国になる。これは世界経済にとってもインパクトがある。

次に規制緩和の側面。彼が最も具体的に話題にしていたのは、米金融規制改革法(通称ドッド・フランク法)だ。その廃止をトランプ氏は唱えていた。同法は1920年代の米国で金融投機がもたらした世界的な金融不安および大恐慌の発生を根絶するために成立したグラス・スティーガル法の現代版ともいえるもの。具体的な内容としては、米消費者金融保護局(CFPB)を米連邦準備理事会(FRB)の中に置くこと、ボルカー・ルール(銀行の市場取引規制ルール)、システム上重要な金融機関(SIFIs)の監視の強化、連銀法の修正など。このドッド・フランク法を廃止するということは、米国の金融機関の行動範囲が大幅に緩和されることを意味する。

これら二つだけでマーケットは大きな双発のエンジンを備えたようなものだ。だから急速に上げた。

むろん懸念も

ただし一方ではマーケットに懸念が残った。トランプ陣営の計画によると、インフラ投資は「deficit-neutral」(赤字中立)で行うという。政府資金はできたら使わない、使ったとしても税収増の範囲でということだが、一方でトランプ氏は大幅減税を掲げている。経済成長が税収を増やすという今までも聞いた論理だが、それが可能かどうか。

移民を制限すれば、その方向からは経済成長率は鈍る。また民間資本が担当できるのは利益が上がるインフラ(具体的には有料道路の建設など)だが、補修や改修を行える範囲は少ない。最後は政府の債務が増えるのではないか、との懸念は消えない。それが債券相場の下落、利回りの上昇につながった。そしてそれがドルを押し上げ、円相場を下落させた。

むろん、巨額のインフラ投資や金融機関への規制緩和は、マーケットが早読みをしている段階だ。トランプ次期大統領の他の政策と同様に、最終的にどうなるかはまだ誰にも分からない。また次期政権の陣容も、決していない。つまり最終的な政策がどうなるかは読めない。徐々に明らかになってきているという段階だ。

強く撤回を示唆していたオバマケアに関しても、「一部のルールには好感が持てる」と述べた。多くの問題に関して彼自身のそして政権の立場がまだ定まっていない。メキシコとの国境の壁についても、「一部は自然地形を利用、一部はフェンス」としていて、それでは今までとどう違うのかという疑問もある。また犯罪などに関連した200~300万人の不法移民の投獄・送還にも言及したが、それが実際にどう実施されるのかも不明だ。

しかし、それでもマーケットは動いた。いくつかのことがいえる。それはまず、マーケットは倫理を引きずらないということだ。マーケットは常に現実を見つめ、その影響を読もうとする。時に危うくても、それが最大の役割だ。そして、マーケットは先読みするということ。だからこの先、トランプ次期大統領の米国再生計画が問題を抱えれば、それを懸念材料とするときが来るかもしれない。先読みが常なのだから。

ご注意:本コラムは、上記掲載日から2週間程度前に伊藤洋一氏が執筆されたものです。
閲覧される時期によっては、現状に即さないことも予想されます。また、内容には仮定に基づいた記述も含まれます。ご了承ください。