1. 金融そもそも講座

第24回「どうやって情報を“読む”か PART2」貿易に敏感な国民性 / 強い悲観論 / 報道を割り引く

前回、日本の新聞は日米の貿易などで摩擦が激しいときにはそのことをひたすら誇張して書くと説明した。「米国はこんなに怒っているぞ」と強調するが、それには幾つかの背景があると書いた。今回はその“背景”を説明しよう。

貿易に敏感な国民性

まず、そもそも論としていえることは、世界中のマスコミ報道にありがちなことだが、やはりセンセーショナリズムがある。しかしこれは報道には本来つきものだ。

なぜなら、何かあったときに書く人が「こんなことはいつもあること」「書く価値はあまりない」と考えたら、一体記事になるだろうか。記者は必ず「それが重要だから書く」「読者にしっかりと重要性を伝えたい」と思って書く。かつ新聞社の中でも「自分の書いた記事を大きく扱ってほしい」という記者同士の競争意識が働くから、記者は「こっちの方が重要ですよ」とデスク(記事の方向性を指示したり、チェックしたり、整理する人)に訴える記事を書こうとする。そうするとどうしても、重要性とか影響をやや誇張した記事になってしまう。

このサイトを読んでいる人は、「淡々と書けばいいのに」と思うかもしれない。しかしおよそ世の中に流布するような文章というのは、皆それぞれが「自分の方を読んで欲しい」「こっちの方が面白いよ」と競争しているようなものだ。競争条件の中では、どうしても派手な方が注目されがちだ。特に世の中の問題を指摘したような記事ではそうだ。日本のマスコミの記事もその呪縛を脱していない。

次に、日本は「貿易立国」という言葉が示すとおり、国の経済が貿易で成り立っている国であると考える人が多い分だけ、海外の日本に対する評価を非常に気にする国である。日本経済はGDP統計で見ると貿易依存の部分がそれほど他の国に対して特に大きいわけではない。しかし島国だし、石油など産業基礎資材を海外に依存しているだけに、「貿易」に関わることには非常に敏感だ。その中で日本の貿易慣行や企業行動について、海外で批判や非難を浴びたりすると、とても神経質(時に“過度”に)になりがちである。

強い悲観論

そして、日本ではマスコミ論調としても「悲観論」が前面に出やすい国である、ということだ。いつも私は思うのだが、例えば本屋さんに並ぶ経済関連の本のタイトルをずらっと見渡すと、圧倒的に「先行き悲観論」をウリにした本が多い。これは日本が高度経済成長をしていたころからの傾向で、これをそのまま信ずるなら日本経済はとっくに崩壊しているはずだし、円相場も今のように強くなかったはずだ。しかし、日本ではなぜか「悲観論」をウリにした本が圧倒的に売れるのである。

これは新聞の記事、テレビの評論などにも表れている。いつも不思議だが、「先行き楽観論」をいう人より「先行き悲観論」をいう人の方が、日本ではなぜか賢く見えるときがある。ある問題を公式の場で議論などをしても、どうしても悲観論が優勢になる。しかしそのくせ日本人はお酒の席などでは「どうにかなる」の楽観論が場を支配する。

「悲観論」が決して悪いわけではない。これから起きる事象に対して国民を早期に警戒態勢にすることができる、という意味ではまず悲観論を論じておくことにはメリットがある。「だからそうしないようにしよう」ということだ。しかし、あまりの悲観論は人間にとって非常に重要な免疫を低下させてしまうようなマイナスの効果を日本に及ぼすのでは、と思っている。しばしば日本や日本のマスコミが陥りがちな悲観論は、個人的には日本に害をもたらす危険性があるところまで進んでいると思っている。

筆者はいろいろな国に行き、いろいろなメディアに接してきたが、北朝鮮や中国など国家が方向性を決めているメディアが「自分の国、政府の先行きは明るい」と書くのは自然としても、日本のマスコミほど自分の国を悲観的に描きがちな傾向がある国をほかに知らない。世界のマスコミは案外、自国に対して楽観的だ。実は日本人は根っこに「なんとかなる」という楽観論があるから、現状を悲観的に分析しようとするのかもしれないと思っているが、問題はしばしばマーケットまで極端な悲観論にとりつかれる傾向があることだ。

報道を割り引く

実に日本のメディアの記事作成プロセスの中にも、悲観論が優位な仕組みができている。例えば日米貿易摩擦が起きる。現場の記者は、そうはいっても日本製を使っている米国人はたくさんいると知っているから、「日本の自動車メーカーに対する強い非難が一部で起きていることは確かとして、まだ支持者も多い」という記事を書きたいと考える。しかし東京のデスクは、「いや米国は怒っている筈だ」と考えるから、現場の記者に「米国は怒っているという論調で記事をまとめて」と記者に注文を付ける、といった具合だ。その結果は日本での「米国は怒っている」論の優勢となる。

いずれにせよ、私の経験からいうと何か摩擦が起きたときの日本のメディアのヒステリックな論調は世界でもあまり例がない。各国の指導者や官吏の中には、日本のマスコミは我々が指弾すれば大騒ぎするので、それを“交渉材料”に使えると読んで、わざと厳しい指摘をする向きもある。「お国(日本)の新聞がこんなに騒いでいるじゃないですか。どうにかしてください」と。つまり日本はその報道故に自縄自縛になってしまうことがある、ということだ。

日本のマスコミ報道には、こうした“癖”があること、故に日本のマーケットもしばしば一方的に振れてしまう傾向があることは、いろいろな場面で日本での報道を考えるときに念頭においた方がよいと思う。つまり、日本ではこうした癖を“割り引く”知恵が必要だ、ということだ。(

ご注意:本コラムは、上記掲載日から1ヵ月程度前に伊藤洋一氏が執筆されたものです。
閲覧される時期によっては、現状に即さないことも予想されます。また、内容には仮定に基づいた記述も含まれます。ご了承ください。

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