1. 金融そもそも講座

第176回 今後の世界の形:政治とマーケット

前回取り上げた相場の急展開(人はこれをトランプ相場と呼ぶ)の影響が、今もなお続いている。そもそも、今回のような予想外の事がなぜ起きたのかについては、まとめていなかった。欧州を中心に来年も選挙が続くし、日本や韓国でも国政選挙があるかもしれない。

さらに気になる動きもある。米航空機・機械大手のユナイテッド・テクノロジーズの空調子会社キヤリヤが、メキシコへの生産移転を予定していた米インディアナ州の工場で消えるはずだった約1000人分の雇用を維持することに、トランプ次期大統領らと合意した。まだ大統領でもない彼の発言によって企業の意思決定が変更されたのは、米国では異例のケース。これは企業活動に対する一種の「口撃介入」だが、トランプ次期大統領の下ではパターン化しかねない。善し悪しの問題は別として、政治や選挙が経済・マーケットに影響を与えるケースが多くなりそうだ。今後どうなるのかを合わせて考えてみたい。

負けたのは誰?

恐らく今回の米大統領選挙でクリントン氏以上に負けを認めなければならないのは、投票当日の朝まで「クリントン氏の圧倒的勝利」を予測し続けた、米国のマスコミそして世論調査会社だ。人材、装置などで十二分な情報収集能力とインフラを持ち、圧倒的な世論形成力を持つと思われていた三大テレビネットワーク、CNN、ニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストなどの既存メディアが、これほど惨めな負けを経験したのは、米国の歴史上これまでなかったことだ。

既存メディアの敗北は、今年6月の英国のEU離脱に関する国民投票でも起きていた。直前の世論調査の読みでは、残留派勝利だった。綿密な調査をした上での予測であり、国際感覚豊かな英国民が離脱などという結論を出すはずがないという「常識」と相まって、それは世界のコンセンサスへと昇華した。今年の二つの大きな選挙で明らかになったのは、既存メディアの予想も外れる、世論調査も当てにならないということだった。

なぜEU離脱派が勝ち、トランプ次期大統領が誕生する事態が起きたのか。一つ確かなことは、投票権を持つ人が離脱とトランプ氏により多く有効票を投じたということだ。米大統領選の場合は、一般投票ではトランプ氏よりクリントン氏の方が200万票程多いが接戦州で勝ったが故に、州に割り当てられた選挙人の獲得数ではトランプ氏が大きな差を付けた。英国でも米国でも、既存メディアが、離脱とトランプ氏に票を入れた人々を見ていなかった、または見ようとしていなかった、ということだ。

多分両国には、戦後の常識や“べき論”に対する、数多くの(ここが重要だ)人々の失望と反感、そして怒りがあったと思われる。それは静かに進行・潜行していた。あの悲惨な戦争が終わってから約70年。戦後スタート時の理想は、孤立主義への決別、競争を旨とする市場経済拡大と、自由貿易を柱とするグローバリゼーションの推進などだった。それが戦後世界の処方箋であったし、求めるべき形でもあった。また、それが今後の繁栄と平和の礎だという考え方で、世界共通の認識だった。

多くの国で、多くの人がその恩恵を受けた。しかしその一方で、雇用を脅かされ、所得の低下とよそ者勢力(移民を含む)の台頭を快く思っていなかった人々も確かにいたのだ。彼らはつい最近まで政治家の約束を、ある程度信じてきたのだと思う。それが、あるべき人の姿と思われたし常識でもあった。

夢と現実の差に気がつくのには時間がかかった。70年という時間の経過の中で、「いつか良くなる。私に付いてくれば」という既存政治家達の売った夢が、数多くの人にとって空約束だったと徐々に分かってしまった。多分ここ数年で覚醒が急速に進んだ。それは格差の拡大(またはそれに由来する“脅威論”)によって促された。EUの規制やEU新規参加業界との競争にさらされた英国の港町や地方都市、そして海外への工場移転でさびれた米国の中西部の街々に、その不満は充満していた。それは怒りとも呼べた。それが選挙で噴出したのだ。

的外れになった世論調査

公表が前提の世論調査表や調査員の前では、あまり常識を離れたことは言えないものだ。国民投票前の英国では、離脱を公言することは負け組とも受け取られた。米大統領選挙の前にトランプ氏支持を表明するには、同じように勇気が要った。あの暴言、女性・少数民族蔑視のトランプ氏を支持するのかという目で見られた。両国での世論調査では、実は、多くの人が回答を拒否している。どのような人が世論調査に協力しなかったかは、十分推測できる。

しかし選挙は匿名だ。自由な選択ができる。今まで自由貿易とか人権という理想を「押しつけられた」と感じていた人々は、ここぞとばかりに離脱やトランプ氏を選んだ。実現しそうもない夢や理想を売るエリート層にウンザリしていたからだ。いわゆる隠れ離脱派・隠れトランプ支持者たちだ。

ではなぜ、そのウンザリだという多くの投票者の気持ちを、既存のメディアは捕捉できなかったのか。これだけ情報化が進展し、ビッグデータなる言葉も登場する今の世界で。既存のマスコミは恐らくそれらをフル稼働させた。しかしちっとも離脱やトランプ氏勝利を予測できなかった。それは恐らく、人々の「内なる思い」はどうやっても捕捉できないからだ。

ビッグデータは人々の発言や行動の軌跡を追い、その大きなトレンドを把握する。しかし人々の怒りや思いはそれがツイッターなどのSNSで表現されるか、デモなどの行動で示されないと出ない。語られることのない、行動に移されない愛が、相手になかなか通じないのに似ている。選挙戦の終盤にトランプ氏陣営の集会が盛り上がっていることは伝わってはいた。しかし熱烈なトランプ氏支持者のそれだろう、と見逃されていた。

トランプ氏の言っていることは、今でもかなりメチャメチャだ。しかしクリントン氏は余りにも「戦後体制の優等生」らしき人物だった。今の大きな流れ――多民族化社会、経済のグローバル化など――の行く末に見える行き詰まりと逼塞(ひっそく)を打破できる人物に見えなかった。クリントン氏が持っていた初の女性大統領という革新的要素は、彼女が30年もワシントンのインサイダーだったという事実に、すっかり色あせてしまった。それよりもプロレスの興行までしていたトランプ氏に、人々は、信じられなくなった常識と過去の知恵の打破を託したのだ。

容喙(ようかい)する政治

ではこれからどうなるのか。これからも世界各国では選挙が続く。その選挙の度に、またしても世論調査が出てくるだろう。しかし慎重に見る必要がある。一つ言えるのは「反常識」の方向に選挙パワーが向かいやすいということだ。なぜならアングロサクソンの2カ国(英米)だけでなく、戦後の常識――市場経済、グローバリズム、平等、移動の自由など――に幻滅を持つ人々は、世界各国に潜在するからだ。

むろん手痛い敗北から、世論調査の補正精度は少しは向上するかもしれない。しかし、静かなる怒りや決して表現されない不満は、いくらビッグデータの時代でも捕捉することはできない。情報化社会の限界だ。むしろ人々の熱意がどちらを向いているかに注意する必要があるかもしれない。いくら常識的でまともであっても、人々の支持の熱意が集まらない人物は、選ばれる可能性が低い。

しかし一方で、重要な別の視点も必要である。それは、選挙で示される民意とは、4年とか5年間に一度しか大きくは聞こえない、響かない声であるかもしれないという点だ。それは選挙の時にしか聞こえない。選挙は通常、あっても4、5年に一度だ。その時になって初めて聞こえる。普段はマスコミにも届かない「静かな怒りの声」なのだ。今回それを聞けたのがトランプ氏だった。

それは何を意味するのか。4、5年に一度大きく聞こえる声だが、選挙を過ぎるとその声はまた小さくなる――、とも理解できる。例えばトランプ氏を含めて米国の政治家達はまたこれからしばらくは、普段から声高な主張をする「東と西の人々の声」をより多く聞くだろう。今回の選挙でよく聞こえた「中西部のラストベルト(さびれた地帯)の声」はまた小さくなりかねない。通常においては、普段から声を出している人の方が政治家の関心を集めやすい。トランプ氏の周りの人間も、実は“はぐれエスタブリッシュメントな人々”が多い。とするとトランプ氏は選挙公約からかなり離れる、とも思える。

ただ、今回トランプ氏が次期大統領としてインディアナ州の空調工場の1000人分の雇用を守るために実際に行動したことは、少なくとも当面は、選挙で聞こえた声がワシントンの政治の場で配慮されることを意味する。しかしそれは、トランプ氏の、中西部の人々への象徴的な贈り物の一つという領域を出ないかもしれない。そして贈り物は続くかもしれない。

恐らくマーケットにも企業にも、今までとは異なる政治の声が突きつけられるだろう。時々爆発する静かな声と、常日頃聞こえる声高な声。しばらくは綱引き(a tag of war)だろうが、マーケットを左右する要素であることは確かだ。

ご注意:本コラムは、上記掲載日から2週間程度前に伊藤洋一氏が執筆されたものです。
閲覧される時期によっては、現状に即さないことも予想されます。また、内容には仮定に基づいた記述も含まれます。ご了承ください。

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