1. 金融そもそも講座

第22回「どうやって金融情報をゲットするか PART3」情報と分析は遅延する

前回のPART2では新聞を取り上げたので、関連して一つ面白い問題を取り上げておく。つまり、市場を見る人間の立場からして「新聞報道は、どのくらい読み手のニーズを満たしているのか」という問題だ。ニーズとは新聞情報がマーケット判断にどのくらい役立てることが出来るのか、ということだ。

情報と分析はすべて遅延する

前回、我々が読む新聞は少なくとも6~8時間前の情報しか入っていない、とお伝えした。印刷・配達などシステム的に読者への情報提供がどうしても遅れるからだ。しかしそれ以外に、新聞、そして雑誌を含めてあらゆる報道には実はもっと根本的な問題がある。マーケットと取り組む若い人にはこの問題をしっかりと把握しておいてほしい。それは、「報道は常にディレイする」という問題だ。

これは報道の本質に関わる問題だ。端的にいって報道とは“何か起きたこと”の第一報や、その後の事実、それに関する分析、解説である。何か起きなければ通常は報道しないし、当然だが分析できない。人間の未来予測能力は極めて限られているので(だから大部分の相場予想は外れる)、世の中の報道はほぼすべてが直近に起きたことと、かつて起きたことについての記述である。「かつて」の幅は実に広い。数秒、数分、数時間前から人類の起源、地球の起源にまでさかのぼることがある。しかしいずれにせよ、人類は基本的には過去しか“ある程度”の確信を持って語れない。

“ある程度”とわざわざマークを付けたのは、誰もが起きたことは認める出来事に関しても、その背景、インパクト、影響などに関しては実に多くの見方が出来るので、「結局こうだった」に落ち着くことは珍しいし、多くのケースにおいていつになっても論争が残るということだ。

また「起きたこと」についても、時間の経過の中で「本当にそうだったのか」について議論が起きることがある。歴史観の違いがまた論争を複雑にするし、「なぜ起きたのか」については永遠に分からないこともある。「起きたこと」について議論の余地があるのは、同じ事件を扱った裁判でもしばしば結論がひっくり返ることでも明らかだ。法律解釈の問題もあるが、事実関係の認識の問題でも人類は多くの間違いと試行錯誤を繰り返してきた。これは永遠の課題だ。

つまり新聞の読み手は、新聞記事の文章面をそのまま読むのではなく、いろいろある、いろいろ指摘できる見方の中から、この新聞は一つの見方を提示しているに過ぎないということをいつも念頭に置く必要があるということだ。

事実が先行する

その前提の上で、我々が目にするマーケット報道を考えてみる。株が上げ続けたり、下げ続けたり、円が同様の動きをしたり。マスコミはそれに注目してしばしば特集を組む。なぜ下がり始めたのか、今後どうなるのか。

ここで重要なのは、「既に、過去に起きたこと」に関しての分析なので、後講釈を含めて記事は実に理路整然と相場の上げ下げに関して理由を並べることが出来るということだ。それは当然で、記事にはまとまりがなければならず、方向性も必要だ。その方が読者の賛同を得られる。だから記事は実に「納得が出来る書き方」をしている。

しかし、実際には「過去に何が起きたのか」を分析し尽くすことは出来ないし、そこには常に誰にも気づかれない他の要因が報道されないまま残ったりする。つまり、記事からは作為的であろうと、非作為的であろうと、事実のいくつかは捨象されているということだ。記事はいくつかの事実を捨象した上で、「これこれこうでしたよ」と読む人を納得させようとする。関連記事の中には非常に良い記事もある。しかしそれから捨象された事実もあることは頭に置いておく必要がある。

さらに重要なことは、マスコミが記者を使って情報を集め、人に話を聞いて記事をまとめるには時間がかかる、ということだ。新聞が特集を急遽企画したにしても、記事としてまとまるには数日はかかるし、雑誌の特集はときによっては数週間、数カ月かかる。重要なことは、その間にも時間は経過し、事実(市場)は進行するということだ。相場は水準を変え、既に新たなトレンドが出てきている。雑誌の場合は特にそうだが、“記事企画”(もっといえば企画会議)が行われたときと、それを我々が読むときの間には、必ず時間の経過がある。時間の経過があるということは、“事実”が持つ意味合いが変わっている可能性が高いということだ。動きの速いマーケットでは、市場の状況が記事企画段階と同じということは極めてまれだ。つまり、相場が解説に先行する。

私はいつも雑誌の記事を読んだり、新聞のまとめ記事、予測記事を読みながら、「これはいつ企画され、どんな記者が書いたのだろうか」と考えるようにしている。自然に。なぜなら、「この記事はもう過ぎたことを一生懸命解説しているな」と思うことが多いからだし、その記事を書いた記者が新人に近いような人だったらとてもえぐった分析はできない。この世界に長くいるとそれが分かる。

それともう一つとても重要なことがある。それは相場においては“相場の水準そのもの”が非常に重要な市場要因だ、ということだ。日経平均が1万円と2万円では全く持つ意味が違うし、相場というのは流れの中で水準を決めているので、例えば相場が1万円のときに企画された記事が1万1000円になったときにリリースされたとしたら、今の市場と記事の意図するところの間には乖離が生じる。これは読者の皆さんも感じているだろう。新聞が「まだ上がる」というニュアンスで書いているときがしばしば相場のピークだったり、逆にもう相場は終わったといった書き方をしたときこそ、相場の底、買い場だったり。

一番有名なのは、米ビジネスウィークが1980年代の初めに「株の終わり」という特集記事を出したことだ。皮肉にもニューヨークの株価が長期上昇基調に入ったのはまさにそのときだった。筆者は1970年代の後半にニューヨークにいて、米株価はダウで1000ドルを行ったり来たりしていた時期(ほぼ70年代の10年)を知っているから、ビジネスウィークがそう書きたかった理由は痛いほど分かる。しかし相場は、この有名な経済誌が「株の終わり」を宣言したときからまさに上昇基調に入った。

自分の頭で

「だから新聞は、まして雑誌は当てにならない」と言っているわけではない。相場が動いたときには誰かがそれを報道し、解説し、より多くの人が納得出来る理由を見つけて分析しなければならない。例え“ディレイ”(遅れ)があっても、多くの新聞や雑誌はより良い分析をしようと努力している。それは良い。新聞社や雑誌社の責任はそこまでだ。

問題はそれ以降だ。実はそれ以降は読む側の責任となる。雑誌や新聞はそれなりに事実を伝え、分析を載せている。それは数週間前、または数日前に企画された記事かもしれない。だからこそディレイがある。新聞がまだ悲観的な観測を強調したまさにそのとき相場が反転に転じるケースもあるし、その逆もまた真なりだ。読む側は、「そうした可能性がある」、いやむしろ「そうした可能性の方が強い」と思って記事を読む必要がある。理由は既に述べた。繰り返すが、記事が書かれるまでには時間がかかっているし、より多くの人に聞くために最大公約数の見方になりがちだ。少しとがった、とっぴな意見は排除されている可能性が高い。だから、そこからは自分の頭で考えなければならない。

またこれも忘れてほしくないのだが、相場はその大部分の期間において“あまのじゃく”である、ということだ。素直な相場などあり得ない。なぜなら相場は、他人の判断を聞いて後で乗ってきた人に利益を分け与えるほど優しくはなく、人が通らない道をあえて歩んだ人、つまり評価に値するリスクをとった人に利益をもたらすからである。

つまり今回書いたことをまとめると、「最後は常に自分の頭を使い、今現在のマーケット状況を自分で判断する」ということだろう。次回は「報道のバイアス」について書く。

ご注意:本コラムは、上記掲載日から1ヵ月程度前に伊藤洋一氏が執筆されたものです。
閲覧される時期によっては、現状に即さないことも予想されます。また、内容には仮定に基づいた記述も含まれます。ご了承ください。

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