1. 金融そもそも講座

第32回「難しくなる世界経済運営」

気がついたら今回が2010年最後のエッセイである。先週取り上げた“真逆”の問題は、戦後の世界の歴史から見れば実に珍しい、かつ興味深い現象だ。金融政策の方向で世界が真っ二つに割れた。むろん、先進国でも途上国でも指標が発表されるごとに景況感は少しずつ変わるが、全体的な経済状況は引き続き先進国が低迷、途上国は総じて強い動きとなっていて、金融政策の真逆状況は年越ししそうだ。中国などは年末にきて引き締め姿勢を強めている。

今回は「真逆状況」の中でも世界の経済が一体強いのか弱いのか、金融の世界は今どうなっているのか、そして来年の世界経済はどうなるのかを俯瞰(ふかん)的に見ながら展望してみたい。年末にこのコーナーの読者が一年を振り返れるように話を展開したい。

世界経済は基調強い

「強いか弱いか」の指標はたくさんある。世界経済ともなれば、「一体何を見ればよいのか」という疑問がわく。しかし筆者は次の一点で、世界経済の基調は強いと判断している。それは市場経済に参加しつつある地球人口の激増である。そもそも、ベルリンの壁が落ちた1989年秋の市場経済参加人口は、わずかに10億人だったと見られている。これは当時の米国、欧州、それに日本やオセアニアなど一般に先進国といわれている国々の人口に等しかった。あとの何十億という人は、そもそも“市場”というものを好ましいとは思わず、資本主義を否定していた社会主義体制の下で生きていたか、非常に所得が低くて世界の企業にとって購買力があるといえるほどの経済力を持たなかった。つまり、市場経済、モノを買うことを楽しむ経済のらち外にいたのである。

しかし今や、我々先進国の人間と同じように消費を楽しみ、豊かな生活をしている地球上の人間の数は、中国やインドで台頭しつつある富裕層約2億人を含めて、20億人近くにも達し、所得階層的にはその下にいてそれを目指すボリューム・ゾーンに入るとされる中所得層の数はアジアだけで9億人に達するといわれる。彼らの消費意欲が強いことは、途上国に行けばすぐに分かる。2010年については、2年連続で中国の乗用車販売台数は回復しつつある米国の販売台数を上回るのは確実で、この傾向は今後も続くだろう。

日本にいると「需要不足」といわれるが、世界を回ると「モノを欲しい人」「所得が上がれば消費をする人」が溢れていることが分かる。こうした強い需要を知っていれば、日本のように今、人口減のトレンドから需要が弱いことを肌身で知っていても、世界全体では「経済は強い」といえると思う。筆者はこうした強い世界の需要をうまく自国経済、企業の体内に入れることができれば、国内需要の不足のかなりの部分は埋め合わせることができる、と考える。今の日本は円高や世界の需要とのミスマッチ(日本の製品が高品質で高すぎるなど)でうまく機能していないだけだ、と考えている。

インフレの局地戦

そこで来年だが、その強さがいくつかの国で問題を引き起こすだろう。中国の直近11月のインフレ率は、2010年の政府目標(3%)を5カ月連続して上回って5.1%に達した。中国政府は庶民の生活を脅かすインフレの抑制に本腰を入れて、利上げ、預金準備率の引き上げ、半ば強制的な物価抑制措置を相次いで打ち出しているが、ついに年末になって「2011年の物価上昇率の上限目標を4%にする」との方針を打ち出した。「3%という今年の目標を続けて、あまりにも実態が乖離(かいり)した場合には政府の責任が問われる」と考えたのだろう。しかし1%もの目標値引き上げは、中国の物価上昇率がいかに高いかを示している。

中国ほど露骨に国内の物価上昇圧力の強さを認める国は世界でも少ないが、日本では想像もできない「インフレ」に悩む国は、インド、オーストラリア、アジア各国などなど実は数多いのである。世界は既にインフレの局地戦に入っている。「局地」といっても、巨大な人口を抱えた国々が入っているので、人口で見た場合、デフレに悩む国の方が局地かもしれないが、GDPで見るとまだ世界経済が全体的にはデフレ傾向であるのに対して、インフレは局地戦ともいえる。

この世界経済のまだら模様は、いずれはどちらか一方の力が強くなって“収束”の方向に動く筈だ。世界経済にはいくつもの堤防(人の動きに関する制約要因、制度の違いなど)があるが、水位の違いはどこかでつながっている湖水の水が徐々に水位を接近させるように、平準化の方向に向かって動く筈だからだ。今の世界経済における途上国はインフレ、先進国はデフレという世界は、実はその方向への動きの一環と見るのが正しいと思う。あまりにも違う賃金水準と物価水準が、お互いを引き寄せているのである。

インフレの局地戦の拡大

しかしその平準化は、“水”のように簡単にはいかない。ベトナムに一昨年行った時に、工場で働く女子工員の平均初任給が月額8000円と聞いたとき、それが日本の例えば15~16万円と接近するには相当長い期間がかかると考えた。なぜなら、工場は簡単には海を越えないからだ。工場周りのインフラの問題もあるし、市場の近くか否かという問題もある。工場が海外に移るについての社会的責任の問題もあるし、独自技術の問題、従業員のノウハウや基礎的能力、教育水準の問題もある。

しかしベトナムで作った方が「労働賃金的には有利だ」という厳然たる事実は、誘因としてベトナムでの賃金上昇圧力、日本での平均的労働者の賃金に対する下方圧力として働く。これは別に日本とベトナムでの関係だけで生じているわけではない。米国とカナダ、EUと東欧の間でも生じているし、資本、資材がグローバルに行き交う世界経済の中では、例えば日本とバングラデシュ、米国とインドの間でも裁定が働いていると考えるのが自然である。

そういう意味で、来年の世界経済でも“調整”“平準化”の圧力は続くだろう。それが金融政策の課題として出てくるのは、引き続き先進国での物価下方圧力・雇用喪失懸念に依拠した金融政策と、途上国での物価・賃金上昇圧力に対処した金融引き締め策である。先進国の中で、そのことを最も明確に政策課題としているのは米連邦準備制度理事会(FRB)である。同理事会の政策決定機関である連邦公開市場委員会(FOMC)は直近の12月中旬の会合で同理事会が負っている責務・使命について「double mandate」であると明確に述べ、「the Committee seeks to foster maximum employment and price stability」と指摘している。「雇用を最大限増やし、物価の安定を図る」と。この場合FOMCは、今の米国の雇用情勢が極めて不満足であること、物価の安定が下落の方向で危険にさらされていること、を言外に言っている。

繰り返すが、世界経済は回復軌道にあると考える。無論一筋縄ではいかないし、途上国と先進国での物価のバラツキ状態(国際的ばかりでなく、時に国内的にも)は続き、この状態からの脱却に世界各国の金融当局は来年も苦闘するだろう。全体的には世界経済の回復基調が鮮明になるにつれて、インフレの局地戦の問題は徐々に戦闘地域を拡大していくのではないか、と見ている。

ご注意:本コラムは、上記掲載日から1ヵ月程度前に伊藤洋一氏が執筆されたものです。
閲覧される時期によっては、現状に即さないことも予想されます。また、内容には仮定に基づいた記述も含まれます。ご了承ください。

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