1. 金融そもそも講座

第189回 曲がり角に立つ米金融政策

今回は「IT株」の特集をお休みして、米国の金融政策が曲がり角に立っているのではないかとも思えるので、その点に触れたい。米金融当局は、6月中旬に今年に入って2回目(ゼロ金利解除に踏み切った2015年12月から見ると4回目)の利上げを実施した。この結果、政策金利は1.0~1.25%になり、やっと“金利”といえる状態になった。米国経済の先行きに対する、当局の自信の表明だ。しかしマーケットでは今までの常識では考えられない事態が起きている。短期政策金利の引き上げにもかかわらず、10年債などで見た米長期金利が、むしろ下がっているのだ。それがドル・円相場を円高方向に引っ張っている。いったい米国経済に何が起きているのか。

自信と不安

6月のFOMC(米連邦公開市場委員会)の声明 で目に付くのは、米国の雇用環境改善に対する当局の自信と、その一方でインフレ率の先行きに対して垣間見える不安だ。FRB(米連邦準備理事会)の政策目標は二つで、雇用を最大限に増やし、そしてインフレ率を理想的な水準に保つこと。前者は5月の雇用統計で誰が見ても完全雇用状態といえる「失業率4.3%」まで改善した。来年と再来年についてもさらに改善して年平均で4.2%程度になるとFOMCは予想。これは単月では場合によっては3%台もあるということだ。

対してインフレ率はFRBが目標としている「年2%」に届かない状態が続いている。年2%のインフレ目標は、世界の中央銀行がおおむね「好ましい」として設定している数値だ。インフレ率がマイナスになるデフレは、経済の循環的縮小をもたらす。当然好ましくない。一方で高率インフレ(定義には議論の余地があるが)は、これまた経済の形をゆがめ、金利の上昇をもたらしてその後の景気鈍化につながる。だから2%が理想として日銀を含む世界の中央銀行が目標に設定している。

米国経済についてみれば、トランプ大統領は政治的に「職、職(jobs jobs)」と言っているが、経済政策要因としての失業問題はほぼ解決したと言っていい。問題はインフレ率だ。FRBはなるべく早く2%の目標までもって行きたい。そして利上げを続けながら、08年からの量的金融緩和策で中銀資産としてたまった国債、MBS(住宅ローン担保証券)などの債券を市場の混乱をきたさずに減らしたい。その資産は現在4.5兆ドルに達している。できれば危機前の1兆ドルまで減らしたい。早く利上げと資産縮小をしておかなければ、次の世界経済危機が起きたときに政策手段が足りなくなくなる。

ゴルディロックス経済

しかし世界でも一番景気が良い米国でも、インフレ率はなかなか上がってこない。FOMC声明ではいつも第一パラグラフで景況を示すのだが、今回この半分弱を使って「12カ月ベースで見ると、インフレ率は最近低下している。食料とエネルギー価格を除く指標(コア)で見ると、米国のインフレ率は2%を下回っており、長期インフレ見通しはほとんど変わっていない」と表明している。

ほとんど変わっていないということは、「景気が良いのに上がっていない」という意味合いだ。なぜなのかという問題に入る前に、それを株式市場に与える影響で考えると、これはむしろ理想的だ。なぜなら株価にとっての競争相手となる金利水準が上がらないからだ。低金利は株価の友達。

利上げが発表された6月14日の米10年債市場を見ると一番低いところで2.096%があった。何と2.1%を切った。これは前日までの2.2%台からは著しく低い。短期金利が上がっても、むしろ下がる長期金利。

「景気がそこそこ良いのに金利が上がらない環境」を、米国では「Goldilocks economy」(ゴルディロックス経済)という。インフレ率が低い、したがって金利も低い中で成長を維持する好調な経済という意味だ。それが株価にとっては好環境であることは理解していただけるだろう。好調な経済ということは、企業業績が総じて良くなることを意味する。実際に米国の株価の上げは、主役を時々入れ替えながらも続いている。また世界を見ても、近年になく途上国、先進国ともおしなべて景気が良い。故の世界的な株高だ。

ただし日本のマーケットにとってちょっと頭が痛いのは、米長期金利の低下はドル・円相場には円高圧力を意味する。FOMC声明があった当日のドル・円相場は一時108円台を記録した。先行きは分からないが、今の状態だと米国の長期金利は2%を割るケースも予想できる。ということは米国の長短金利の差が1%を切るということだし、日本と米国の金利差も縮小する。

コナンドラム

なぜ米国のインフレ率と、それを反映する長期金利が上がらないのか。背景の一つは、原油など資源価格が高値より大きく低下したこと。FOMC声明当日の原油相場は1バレル45ドルを切った。世界の過去のインフレ期を見れば、ほとんどのケースにおいて石油価格が高かった。やはり非常に重要な産業資材なので、その石油価格が1バレル100ドルを超えていた時代から「なかなか50ドルを上回らない」時代に入って、インフレは起きにくい。

しかし失業率が低いのだから、賃金の上昇を経由した物価上昇は考えられるはずだ。特に米国では既に「完全雇用状態」だ。FOMCはエネルギー価格の下落も、労働賃金の上昇が遅れているのも「transitory(一時的)な現象」である、との見通しを繰り返し述べている。だから「2%のインフレ目標には中・長期的には自信がある」とイエレンFRB議長は言う。

しかし現実は厳しい。今の4.3%という低失業率の中でも、労働賃金の上昇率は2.5%にとどまっている(5月分の雇用統計)。これは、前回失業率が4%前半だった時の賃金上昇率4%を大幅に下回る。なぜ失業率が低いのに労働賃金が上がらないのか。イエレン議長はそれを「コナンドラム(conundrum、謎)」と呼ぶ。

いくつかの説がある。まず「スキル・ギャップ説」。企業は人が欲しい。しかしそれは自社に適したスキル、ノウハウ、経験と知識を持った人でなければならない。それがなかなかうまくいかない。今マーケットに残っている人材の中に企業は「必要な人材」を見つけ出せなくなっている。つまり高い賃金を出す対象の労働者がいない。

あと「時間説」もある。リーマン・ショック後の10%に達する失業率の時代から4.3%に改善するまでに「時間」がかかったので、人々は労働市場が改善してもすぐには強気になれない、という説。つまり記憶が邪魔しているというわけだ。それに加えて現代に働く労働者は「実に様々な脅威」を肌で感じながら生きていると、筆者は思っている。それは、

  • 1.リーマン級の危機がもう一度起きたら自分はどうなってしまうのか、いやまた起きるかもしれないという危機感
  • 2.外国人労働者や移民の存在、ロボットの導入やAIと人間との競争における敗北
  • 3.肌感覚での成長率低下に見合った形で、「あまり大きな賃上げを要求しない方が賢明かもしれない」という意識の芽生え。労働組合も頼りにならないという感覚

……などだ。それらが労働賃金を抑える。むろん筆者の仮説の部分もある。

そして今回、利上げがあった故にマーケットでは「利上げペースダウン説」も台頭している。イエレン議長は強気で年内もう一回と言っている。しかし最近の経済指標の弱さから見ると、9月ごろに資産縮小に着手する代わりに、利上げはしばらく様子を見るのではないかとの見方もマーケットで台頭している。でなければ長期金利の下げは理解できない。

いずれにせよ、昨年末から足早に3回利上げした後の米金融政策は、FOMCの強気ほどには確かなシナリオが描けなくなっている。

ご注意:本コラムは、上記掲載日から2週間程度前に伊藤洋一氏が執筆されたものです。
閲覧される時期によっては、現状に即さないことも予想されます。また、内容には仮定に基づいた記述も含まれます。ご了承ください。

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