1. 金融そもそも講座

第173回 迫る米大統領選挙

11月8日投票の米大統領選挙が目前に迫ってきた。依然として世界最強の、そして日本も所属する自由世界チャンピオン国の、トップを決める選挙。新しい大統領のキャラクターとその政策は、今後のマーケットにも大きな影響を与える。今回の選挙は私が見てきた多くの米大統領選の中でも特異な選挙だ。その特異さに目が行きがちだが、大統領選とは、一旦決まれば負けた方の候補は急速に過去の人になるのが通例だ。少なくとも次の選挙までは。今回の場合はヒラリー、トランプ両候補とも70歳前後の高齢であり、今どれほど騒がれても負けた方は忘れ去られると思われる。そして新大統領は2期8年を目指して自分の政策を進めようとする。

今から負けを準備

今回の選挙でもっとも特徴的なことは、劣勢に立つ共和党のドナルド・トランプ候補があたかも自らの負けを先取りするかのように「今回の選挙は不正だ」との主張を強めていることだ。マスコミや共和党の幹部まで陰謀を巡らして、自分を不正に敗北させようとしているとの主張。彼が一番良く使う単語は“rigged”である。辞書を引くと「操作された」という意味で、“rigged election”とは、八百長選挙、不正操作された選挙ということになる。

この言葉を素直に受け取ると、トランプ候補は今回の選挙は不正な選挙なので自分が負けてもそれは不正であって、そんな選挙の結果は認めないと言っているように聞こえる。つまり選挙の正統性を否定し、よってヒラリー・クリントン民主党候補が当選しても、大統領と認めないと示唆しているとも受け取れるのだ。こんな大統領候補を筆者は知らない。多分過去に一人もいない。二大政党の一つである共和党の正式候補の口をついて出てくるのも驚きだ。過去の敗者は、潔く負けを認め表舞台から一旦退場した。

むろんこんな論法を繰り広げるトランプ候補をいさめる人はたくさんいる。例えばオバマ大統領は

  • 「泣き言はやめた方が良い。無責任。近代政治史で前代未聞の出来事」
  • 「負けそうになって他者を非難し始めるようでは、この大統領職には就けない」

と酷評した。確かに米国のメディアにはトランプ候補に対するマイナス情報があふれているし、新聞の大部分はその社説(米国では大統領選挙の際は各新聞がどの候補を応援するか旗幟(きし)鮮明にする)で、トランプ候補を大統領には推せないとの立場を打ち出した。それはトランプ候補の過去の行状の悪さ、そして今になっても使っている言葉の軽さ、乱暴さ故である。女性問題もそうだし、所得税も長きにわたって支払ってこなかった問題もある。自ら作っている問題故に、非難の矢面に立たされている。それを全く自覚していない。常に他者が悪いというのが彼の主張だ。これは受け入れられないだろう。

深まらぬ議論

候補者の一方がスキャンダル続出で集中砲火を浴び、そして民主党のクリントン候補も公務でのメールの授受を私用メールアカウントで行った問題が尾を引く中で、ちっとも政策論争が深まらないのも今回の大統領選挙の特徴だ。筆者は20代の後半にニューヨークに4年間滞在したこともあってずっと米大統領選挙を気にかけているが、今回ほど空疎で、中味が無く、互いに対する醜い非難合戦になった選挙を知らない。米国の品格はどこに行ったのかと思う。三回も直接対決の候補者討論会をやったが、(討論で)どっちが勝った、負けたの“印象論的”議論はあるが、中味に深入りできたためしがない。これは討論会の進め方にも問題があるが、候補者の資質にもよる。

トランプ候補は「米国を強くする、米国を再び偉大にする」と言うが、その方法について具体的な中味となる政策を示したことはない。彼が口にするのはクリントン候補、共和党指導部、そして女性問題を取り上げるマスコミを口汚く非難する言葉だけだ。あまりにも中味のない選挙戦故に、米国では第二回の大統領候補討論会で二人に具体的にエネルギー政策を問いただした一有権者に注目が集まっている。有権者の間からも、もうウンザリの声が聞こえ、多少まともな質問をした一有権者が注目されたという展開。驚くべき事だ。

そうした中で、負けたときにトランプ候補は敗北を認めるのかといった議論さえ出ている。ペンス副大統領候補は負けは認めると主張するが、誰の声にも耳を貸さないトランプ候補は10月20日の第三回討論で「その時考える」と述べた。これは選挙結果を認めないかもしれないと言っているに等しい。恐ろしい考え方だ。今の情勢は世論調査を見る限りクリントン候補の優位がやや拡大していて、同氏が当選する確率92%、トランプ候補が当選する確率8%とニューヨーク・タイムズは分析している。

最近の世界の国レベルの選挙――例えばEU離脱を巡る英国の国民投票など――は事前の予想を覆す結果が出ている。選挙は分からない面がある。しかし英国民投票が最後まで賛否拮抗の状態だったのに比べれば、今回の米大統領選挙は世論調査でのクリントン優位は拡大しつつある。

広がる可能性

しかしそれでもトランプ候補の支持率には根強いものがある。調査によってばらつきはあるが4割前後のものも多い。日本人の我々から見ると、あんな人物が大統領になるのはメチャメチャとも思える無定見、無政策、そして周囲の人間も離れていく人物に、なぜそれほどの支持が集まるのか?それには次のような見方ができると思う。

  • 1.ブッシュ、クリントンなど見慣れた名前が続いた米国の大統領職に、米国民は斬新な人を望んでいる
  • 2.従来の米国の政治から見放されていた人々(貧しい白人層など)にとって、既存の政治から一線を画すトランプ候補は、それでも救世主に見えている
  • 3.米国に根強い「反知性主義」の流れが、今はトランプ候補に集まっている

などだ。このうち反知性主義について説明すると、知的権威やエリート主義に対して懐疑的な立場をとる主義・思想を指す言葉で、一般的には「データや証拠よりも、肉体感覚やプリミティブな感情を基準に物事を判断すること(人)」を指す。トランプ候補という人物の有り様そのものにも思える。なにせ彼は共和党の指導部さえもこき下ろす。

新大統領下の米国を考える時にマーケット的にも重要なのは、米国という国は、我々日本人の想像を超えたファクターを数多く抱えた国だということだ。選挙は水物だから、例えばクリントン候補が残る選挙運動中に倒れるなどしたら、予想外にトランプ候補が大統領になる可能性もごく僅かだが残っている。またクリントン候補が予想通り当選しても、従来の米国とは別の物になる可能性もある。例えば日本ではTPP審議が始まったが、米国での大統領選後のTPP審議のメドは全く立っていない。彼女は大統領選挙になってTPP反対に立場を変えた。

その他の政策に関しては、クリントン候補が勝てば基本的にはビル・クリントン時代(8年)、そしてバラク・オバマ時代(8年)の政策の延長となる。しかしむろん初の女性米国大統領として今までにない政策を打ち出してくるだろう。何よりも興味深いのは、ドイツのメルケル首相、イギリスのメイ首相に加えて、主要7カ国の中で3番目の女性トップになるということだ。G7の半数弱が女性をトップに頂くことになる。

世界はその面からも変わりつつある。マーケットがどうそれを見るか。

ご注意:本コラムは、上記掲載日から2週間程度前に伊藤洋一氏が執筆されたものです。
閲覧される時期によっては、現状に即さないことも予想されます。また、内容には仮定に基づいた記述も含まれます。ご了承ください。

目次へ戻る