1. 金融そもそも講座

第115回「日本の失われた4年」

日本の株式市場は徐々に力を取り戻して、年初来の低迷から抜け出しつつあるように見える。しかしその動きを過去10年というスパンで振り返ってみて最近改めて思ったことがある。それは「やはり政策は重要」ということだ。米欧などの他の主要市場と日本の過去10年の動きを比べてみればそれは明瞭だ。リーマン・ショックは世界を震撼(しんかん)させたが、欧米市場がボトムから株価を順調に反発させるのに成功したのに対して、2009年から12年末までの日本の株式市場はほぼ4年間も、“底ばい”ともいえる低迷を続けた。政策の違いが大きい。日本は市場から見て4年という時間を空費したのだ。そのツケが世界の株式市場における今の日本株の出遅れとなっている。これこそ日本にとっての「失われた4年」だといえる。

順調に反発した欧米株式

今は史上最高値をゆっくりと更新しているニューヨーク市場の過去10年をダウ工業株30種平均で見ると、07年に大きな山を形成した後に08年には徐々に下げ、その下げを一気に加速させたのがリーマン・ショックだった。その日は08年9月15日で、「今でもその日の事はよく覚えている」という人は多いだろう。映像の時代故に、ニューヨーク証券取引所にカメラが入って逐一相場の動きを中継したからだ。

ダウ工業株の相場レベルを見ると07年の高値が14000ドル台。08年は徐々に落ちてきてはいたが、ショックの直前はまだ11000ドル台だった。それがショックでがくんと落ち、翌年の3月にはダウは6000ドル台の後半を記録した。その間の相場の動きは実に荒く、それがニュースになった。筆者も2回ほどテレビ番組撮影のためにニューヨークに行った。

しかしその後のニューヨークの株価の反発は、「着実な右肩上がり」と表現できる。むろんいくつかの小さな調整局面はあったが、振り返ればしっかりした上げ基調の継続となっている。そしてそのレベルに関しては「高すぎる」など様々な議論はあるが、実際の数字として今のダウ工業株30種平均は16000ドル台後半の高値圏となっている。

日々の動きに目を奪われすぎると分からないが、大きなチャートで見るとそれが実に着実な上げだったことが分かる。ユーロ危機などがあった欧州の株を見ても、フランクフルト、パリ、ロンドンなどの主要市場の株価(主要指標)はそれぞれの市場の特殊要因を含みながらも、形状的に見れば09年の年初からは基本、右肩上がりだった。

4年間“底ばい”だった日本

対して日本の株価の動きを日経平均の10年で見ると、他の市場と比べて極めて特異な形をしている。09年の年初からは短い期間やや反発の兆しを見せたものの、その後は浮揚力を全く失い、12年の秋まで“桶の底”のような形を形成しながら安値を続けた。12年の秋からは日本の株価は足早な上げになっているので、本当に日本の株価の過去8年ほどの形状はまるで桶のようになっている。桶の底を株価がはっていた期間は約4年だ。

このような特殊な形状をしているのは先進国の株価では日本だけである。他の主要市場のリーマン・ショック急落後の動きは基本的には右肩上がりである。であるが故に、ニューヨークや主要欧州市場の株価には「高値更新」となっているところが多い。仮に底ばいの4年間が日本になかったとすると、つまり欧米主要市場並にゆっくり右肩上がりを続けたとすると、日本の株価は今既に18000円を上回っていてもおかしくない。

日本の株価の史上最高は89年末の39000円弱だから、むろん高値更新にはなっていない。しかし今の15000円前後から比べればかなり高い水準に到達できているのだ。この株価水準で3000円の差は、国富にして実に大きい。株価が18000円になっていたら、消費、生産など日本の経済活動のレベルはかなり高かったはずだ。

不毛だった4年間の政策

日本の株価が桶のような特殊な形状になった一つの大きな要因は、円相場だろう。09年から12年までの4年間、日本の通貨である円はドルに対してゆっくりではあるが高値追いを続けた。大まかに見て100円前後から70円台の半ばになった。輸出立国であった日本の通貨が円高傾向を続けたので、経済から活力が失われた。デフレ圧力も強まった。

では、そもそもなぜ基調的な円高に歯止めをかけられなかったのだろうか。筆者は一言で言えばその間の「政策の貧困」に原因があると思っている。日本の株式市場の失われた4年間の3年半を担っていたのは民主党政権だ。民主党は政権を取ったことで舞い上がってしまって、はっきり言えば経済政策はなかった。よく指摘されたことは「成長戦略がない」ということだった。今思い起こしても、民主党政権の期間にこれといった経済政策、産業政策は打ち出されなかった。むろん政権は経済だけで評価する種類のものではない。しかし株式市場が横ばい(というより底ばい)だったことから判断すれば、市場は政権を「無策」と判断していたということだろう。政策無策でも株価が下がらなかったのは、「それ以上は下がらない水準」にまで日本の株式市場が既に下げていたからだ。

今振り返れば、その間に金融政策を担当した日銀の白川前総裁も「政策の小出し」に終始して、マーケット的には「無策」だったといえる。白川総裁が一番懸念していたと思われることは、「金融を緩めすぎることによるインフレ」だったが、今の世界を見ると「ディスインフレ」と「デフレ」こそが問題である。インフレは懸念対象ではない。白川総裁の懸念は杞憂(きゆう)だったのだ。その4年間の日本の実質金利は高い水準で推移し、これが基調的な円高を招来した。つまり株式市場の空白の4年間を見ると、短い間に3代も変わった民主党政権と白川総裁率いる日銀の「無力・無策」故だったといえる面があると思う。

むろん、いろいろな見方があるだろう。アベノミクスや黒田総裁の金融政策に対する評価ももうちょっと時間が経過し、少なくとも10年単位の視点で見る必要がある。しかし過去10年を振り返ったときに、民主党政権や白川総裁の政策が日本経済に活力を与えたという心証を得ることは難しい。株式市場が底ばいを続けたままだったからだ。株価は企業の活力を反映する。しかしこれを見て分かるのは「政策の重要性」だ。

ご注意:本コラムは、上記掲載日から1ヵ月程度前に伊藤洋一氏が執筆されたものです。
閲覧される時期によっては、現状に即さないことも予想されます。また、内容には仮定に基づいた記述も含まれます。ご了承ください。

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