1. 金融そもそも講座

第106回「ラガルドの警告」

日本経済は強さを増し、米国経済は量的金融緩和(QE3)の縮小に着手できるまでになり、欧州のどん底景気も当の南欧諸国から改善の兆し……と見られていた矢先に、やや予想外の警告を発した人物がいる。IMF(国際通貨基金)のラガルド専務理事だ。彼女は「世界経済の回復はいまだ弱々しく、今後はさらにデフレの脅威に立ち向かわなければならない」と警告した。その背景は何なのか、そして世界は何をすべきなのか。今回はこの問題を取り上げる。

「悪魔」よりも「鬼」の方が怖い

彼女が世界を驚かす警告を発したのはワシントンのナショナル・プレスクラブでの2014年1月17日の講演だ。年初での発言だというのに世界経済について明るい話はあまりせず、米国、日本、ユーロ圏などの先進国経済は「極度の低温状態からは脱した」としながらも、「その成長軌道はあまりに低調、脆弱、不平等だ」と警告した。昨年末にQE3の縮小に着手したFRB(連邦準備制度理事会)を当てこするような発言に加えて、「いまだ(世界では)約2億人分の雇用が不足している」と具体的数字にまで触れた。

さらに「世界の多くの中央銀行はインフレ対策に注力しているが、今後はむしろデフレのリスク拡大が懸念される。いったんデフレに陥れば、回復は非常に困難となるだろう」と述べた上で、「インフレが悪魔ならば、デフレは断固として立ち向かうべき鬼だ」と表現した。彼女が言いたかったのは、「悪魔」よりも「鬼」の方が怖いということだろう。英フィナンシャル・タイムズ紙はラガルド発言を「世界機関の高い地位にある政策決定者としては初めて“デフレの危機”を警告した」と紹介した。

もっとも当てつけられたFRBも、FOMC(連邦公開市場委員会)声明などで繰り返し、「目標である2%にはるかに届かない低インフレ状況」を米経済の懸念材料には挙げている。しかしいつの声明でも「長期インフレ期待は安定している」といった表現で、「いずれインフレ率は高くなる」という判断だ。ラガルド専務理事はこうした楽観論に警鐘を鳴らし、「現在先進国に広がる低いインフレ率が、日本経済を20年間に渡って停滞させたような、物価の低下を招くかもしれない」と警告し、FRBの楽観論に間接的に反論した。

経済統計は、ラガルド専務理事の発言を支持しているように見える。例えば米国の消費者物価指数は昨年1.2%しか上昇しなかったし、ユーロ圏のインフレ率は0.8%に下がった。日本のインフレ率は上がり始めているが、依然として「消費者物価で2%の上昇」が目標であり、その達成も容易ではないと見られている。

トルコでの印象

ラガルド専務理事が警鐘を鳴らした1月17日、筆者はトルコで「世界を覆うディスインフレ圧力」の強さを目のあたりにした。街を少し歩けばどこにでもバザールがあるといっても過言ではないイスタンブールで、今の世界におけるモノの氾濫に改めてびっくりした。バザールは店の奥、天井まで所狭しとありとあらゆる種類の商品を並べてある。それを見ながら、「インフレを起こすには容易ではない世界に我々は住んでいる」と改めて思ったのである。

「一体これを誰が、そしてどのくらいの賃金で作っているのか」。それは多分、バングラデシュ、ミャンマーなどの国が次々に市場経済に参入する中で、低賃金で働く人の数が劇的に増えていることと関係しているのだろうし、3Dプリンターなどの生産革命もある。加えて、原油のような基礎エネルギー源もオイルシェール革命で簡単には値上がりしない状況が出来上がった。バザールでは、「商品が売れる見込みがあまりないのにずっと並べられている」という印象を受けた。なにせ売れない商品はほこりをかぶって城壁につるされていたりするのだ。ずっと売り物として。モノの値段が上がるのは容易ではない。

モノがあふれているのは日本も同じだ。展示方法がおとなしいだけで、100円ショップに行けば、「こんなものがこの値段で」とも思う。ということは、今の世界では「一般物価を上げる」というのは容易でないことが明らかだ。ラガルド専務理事の警告はそういう意味で筆者は納得できた。「まだインフレ再燃を懸念するのは時期尚早ですよ」と彼女が言っているように聞こえた。

ゴルディロック経済

もっとも物価がなかなか上げらないという今の情勢は、米国などで久しく続いている「ゴルディロック経済」の一つの大きなバックグラウンドである。「ゴルディロック経済」とは、「熱してインフレにならず、冷えすぎて景気後退にもならない適度な経済状態」のことを意味する。由来は英国の童話「ゴルディロックスと3匹のくま」の主人公である女の子の名前である。熊の親子の家に迷い込んだゴルディロックスが、熱すぎず冷たすぎもしないちょうどよい温かさのスープを見つけ、次にちょうどよい硬さのベッドを見つけ……という話から来ているといわれている。

だからデフレ懸念がIMFの高官から出て、その一方で世界経済における有力国の中央銀行が量的緩和の出口を探すような経済情勢は、必ずしも悪いことではない。問題はそれが続けばよいが、もしかして中央銀行の慢心が過ぎて「デフレの悪しきスパイラルになったら世界経済は危ない」というのがラガルド専務理事の懸念だろう。では何をすべきか。専務理事は「先進諸国の中央銀行は強固な成長がしっかりと根付くまでは、資産購入プログラムなどの金融政策や景気対策を継続するべきだ」と提案している。彼女はさらに、「世界的なインフレを心配する前に、世界はもっと仕事を創出することができる」とも述べた。

ここまで読むと、ラガルド専務理事の警告は改めて今の世界経済が「戦後の常識」では理解できない状態にあること、世界経済の構造変化の中で「依然としてデフレの方がインフレより危険で、油断すると世界がそのデフレに陥る危険性がある」というまっとうな警告をしているともいえる。ということは米国のようにQE3の出口を探る国もあるが、そもそもデフレ圧力が強い今の世界では、日本の金融当局がまさに行っているような「緩和努力」を今後も続ける必要性を強く示唆しているように見える。

ご注意:本コラムは、上記掲載日から1ヵ月程度前に伊藤洋一氏が執筆されたものです。
閲覧される時期によっては、現状に即さないことも予想されます。また、内容には仮定に基づいた記述も含まれます。ご了承ください。

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