1. 金融そもそも講座

第103回「マーケットは“悪”か?」

マーケットは「世の中の全ての事象・現象を映し出す鏡」である。そこで最近思わぬところから飛び出した一種の「マーケット悪玉論」に関しても取り上げておこう。予想外の人から出てきた“批判”を考えてみることによって、我々はより深く「マーケットとは何か」を理解できると思う。

Evangelii Gaudium

その批判は、今年(2013年)3月にコンクラーベで第226代目となったフランシスコ・ローマ法王(本名ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ)から出た。同法王は11月末に公表した「Evangelii Gaudium(喜びの福音)」と題した「ミッション・マニフェスト」(新法王に選出されて以降、強調してきた多くのテーマを一つにまとめたもの)の中で、「より多くの女性の参加」などローマ・カトリック教会制度の改革に言及した。加えて今の世界が直面している「市場経済が生み出す貧困や格差の問題」に切り込み、その背景となっている考え方を刺激的な言葉を使って鋭く批判したのだ。その標的の中には、今の多くの市場経済国、特に米国が経済政策の柱の一つとしている「トリクル・ダウン理論(trickle-down theory)」が含まれていた。

ローマ法王が現実世界の問題に触れ、それについて自らの意見を述べることはそれほど珍しいことではない。前任のベネディクト16世も世界が直面する問題として貧困や格差の問題には触れてきた。南欧や南米などで教徒の多くが直面している問題だからだ。しかし、フランシスコ法王は「どうして高齢のホームレスが野ざらしにされて死亡することがニュースにならず、株式市場が2ポイント下がっただけでニュースになるのか」「飢えている人がいる一方で食べ物が廃棄されているのを見過ごし続けられるのか」「排除と不平等の経済は人を殺す」などと指摘して、これらを「資本主義の行き過ぎ」と批判した。

特徴的だったのは、米国の保守派が信奉する経済理論の一つである「トリクル・ダウン理論」を批判したことだ。これは歴代の法王にはなかった行為だ。フランシスコ法王は文書で「この考え方はこれまでどんな事実(facts)によっても立証されたものではないのに、荒々しい経済的パワーを持つ者たちに正当性を与え、現在の経済システムの機能を神聖化している」と批判した。法王の言う「資本主義の行き過ぎ」は「マーケットの行き過ぎ」と考えてもあまり違わない。

トリクル・ダウン

「トリクル・ダウン」をあえて日本語に訳すと「滴のしたたり」となる。つまり、大企業や豊かな個人などが一段と富んでお金を使えば、そうでない企業や一般生産者や消費者にも自然に富が滴のように落ちて浸透するという考え方だ。特に米国ではこの考え方に立つ人々は、課税や規制に強く反対する根拠としてこの理論を援用する。

自由で課税の少ない社会がより多くの富を生み、それが社会全体を豊かにするという考え方だ。レーガノミクスなどはその典型ともいえる。フランシスコ法王はこの経済理論に対して、先に述べたように「事実(facts)によっても立証されたものではない」と指摘して、こうした考え方が収入の格差、それに貧困を生んでいると批判した。

同法王が従来の法王の立場を越えて今の市場経済、その背景にある考え方に警鐘を鳴らしたのには次のような背景もあると思われる。

  • 1. バチカンが位置するイタリアをはじめ南欧諸国では、失業、貧困など深刻な経済問題が発生しており、ローマ・カトリック教会、法王としてもそれらの問題に発言する必要性を感じた
  • 2. アルゼンチン出身のフランシスコ法王がブエノスアイレスの枢機卿(すうききょう)時代、同国が経済危機に直面し、悲惨さを目のあたりにした
  • 3. 先進国のみならず中国など途上国でも貧富の格差拡大が大きな社会問題となっており、それが政治・社会の不安定要因として大きくなってきている

法王はさらに、現在の経済システムはその根本において不公正であり、その理論は市場と金融上の投機の絶対的な自立を守るためのものだと指摘。この種のシステムは“新しい専制”(a new tyranny)を生む危険性があるとも警告している。

フランシスコ法王は欧州人ではない初の法王として、その就任以来、世界中の注目を集めてきた。質素を旨とし、狭いアパートに一人で暮らし、バチカン内の移動は古いフォードの小型車を使っていると伝えられている。歴代の法王の暮らしぶりとは全く違う。その新しい法王がいよいよ「経済」「経済理論」にも直接言及してきた驚きが今回の「ミッション・マニフェスト」にはある。

マーケットを見る目

経済理論としての「トリクル・ダウン」には、法王の指摘を待つまでもなく様々な批判が寄せられてきた。法王が言うように、この理論が正しかったと歴史的に証明できるような事実はなかったという見方もあるし、「多少の滴の浸透はあっても格差は開くばかりだ」「時差が大きい」というもっともな批判も多い。

しかし、成長と富の分配のより均等化をどうやって実現するのか、マーケットに代替する方法はあるのかという具体的な問いに関しては、経済・社会・政治の複雑な要請に十分応えるモデルは容易には見いだせない。社会主義・共産主義が経済をつかさどる考え方は敗北した。であるが故に、今の世界では「マーケット機能を重視する経済方式」を採用する国が増えている。しかしそこにも問題が生じているというのは事実である。

今多くの国が市場経済と同時に採用している民主主義も、「民主主義は最悪の政治形態であるといえる。ただし、これまで試されてきたいかなる政治制度を除けばだが」というチャーチルの言葉が示すとおり欠陥だらけである。しかしそれに代わるものはなかなか見つからない。私が目を通した限り、ではどういう経済体制、経済理論が正しいのかについては法王も言及していない。恐らくそれは法王の仕事ではない。法王はカトリック教会に、不平等と社会的不公正を糾弾しつつ聖職者としての使命をさらに深く追求するよう求める」としている。

今の世界における、先進国、途上国問わずの格差拡大、貧困層の増大にマーケットがどのような役割を果たしているのか、その是正には役立っていないのかについては未だ議論が続いている。法王のような考え方もある。オバマ大統領も米国における格差拡大と貧困の問題を取り上げて、それへの取り組みを約束した。

マーケットも社会の一部である。社会の様々な勢力がマーケットをどう見ているかについていつも関心を払うことも、マーケットの先行きや将来を考える上で重要なことだと思う。

ご注意:本コラムは、上記掲載日から1ヵ月程度前に伊藤洋一氏が執筆されたものです。
閲覧される時期によっては、現状に即さないことも予想されます。また、内容には仮定に基づいた記述も含まれます。ご了承ください。

バックナンバー2013年へ戻る

目次へ戻る