2005年12月21日
世の中に永久運動は存在しません。80年代後半の日本を舞台に起こった土地と株式の投機熱もいずれはピークを迎えます。それが人為的なものか偶発的なものかは問わず、いつの日かブームは終わりを告げることになります。日本の場合、株式ブームの頂点は1989年暮れに、土地投機ブームの頂点は少し遅れて1991年中ごろに訪れます。そして投機ブームの幕引きに大きな役割を果たしたのが、1989年12月17日に日銀総裁に就任した三重野康氏(前・日銀副総裁)です。
すでに1988年ごろから、地価の高騰はたびたび社会的に大きな問題を引き起こすようになっていました。再開発に必要なまとまった土地を確保するために「地上げ」行為が横行し、相続税や固定資産税の支払いに困ってせっかくの住居を泣く泣く売らなければならないという例も多発しました。
同じ頃に株式市場では「リクルート事件」が起こりました、1988年夏ごろに発覚した「リクルート事件」によって、未公開株のリクルート・コスモス株を巡る贈収賄の容疑で、リクルートの江副浩正会長やNTTの真藤恒会長、中曽根内閣の藤波孝生官房長官などが次々と起訴され、当時の宮沢大蔵大臣の辞任、竹下内閣の崩壊にまで発展しました。行き過ぎた地価と株価の高騰を何とかしなければならないという社会的な非難の声が日増しに高まっていったのです。
この時期、地価の高騰に歯止めをかける地価抑制策には、直接的な土地取引の規制、土地関連税制の強化、そして金融政策と3つの手段が実施されました。このうち直接的な土地取引の規制は、土地取引に監視区域制度を設けるなどの方法で1986年暮れから段階的に実施されています。
同じように土地関連税制の強化も何度かに分けて実施されたのですが、税制や土地取引制限などの諸策は、地価の高騰を抑えるにはさほど有効な手立てとはなりませんでした。地価が将来値上がりすれば、土地取引の区分も税制の強化もコストとしては微々たるものに過ぎないためです。本格的な地価抑制策は金融政策の発動まで待つことになります。
日本の金融政策は1989年5月末に引き締めに転じられました。その後、土地バブルの熱気が冷めるまで合計で5回、公定歩合が引き上げられました。内訳は1989年に3回、1990年に2回です。このうちの後半3回(89年12月、90年3月、90年8月)が三重野総裁によって行われたものです。三重野総裁は日銀副総裁の時代から、地価と株価の高騰に歯止めをかけようという意見を持っていたと言われます。
公定歩合は1989年5月より引き締られることになりましたが、より本格的な地価高騰の抑止策は1990年4月に導入された「総量規制」です。総量規制とは、大蔵省銀行局からの通達として1990年3月末に出されたもので、これによって全国の金融機関は、四半期ごとの不動産業界向けの融資残高を、貸出残高全体の伸び率以下に抑えることが義務づけられました。金融機関に対して無制限だった土地担保融資の拡大を直接抑えるという意味で、総量規制が地価高騰に対して大きな歯止めとなったのです。
株式市場は1989年12月の大納会の引け値で、日経平均株価が3万8915円の史上最高値を記録しました。バラ色の未来が約束された1990年の大発会、その時点から株価は急落を開始しました。90年2月25日には前年末の最高値から10%以上下落し、3万5000円を割り込みました。90年4月には2万8249円でひとまず底打ちして反発に向かうのですが、7月に3万3172円の戻り高値をつけた後は再び急落し、8月に日銀が第5次利上げを実施したことも手伝って、90年10月には2万0221円までの暴落となりました。
世間ではまだ土地取引は活発で、バブル景気も以前のままに続いていたのですが、ここまで来ると株式市場は事態の異様さを感じ取り始めるようになっていました。
1990年8月2日にイラクが突然、隣国のクウェートに侵攻し「湾岸危機」が勃発しました。イラク軍によってペルシャ湾岸の油田が爆破され、原油価格が急騰。当時としては最高値の1バレル=40ドル突破にまで値上がりしました。それまでの株価上昇を支えていた「低金利、円高、原油安」というトリプルメリットのうち、少なくとも低金利と原油高の2つはこの時点で消滅していました。さらに為替レートも1ドル=160円台の円安に振れており、日本は気がついたら「株安、円安、債券安」というトリプル安に直面することになったのです。
株式市場はその後、1992年8月に日経平均が1万4309円で下げ止まるまで3波にわたって下げ続けました。この時の下げ率はピーク比で-63%にも達し、昭和金融恐慌の-67%、1929年のアメリカ大恐慌時の-89%にも匹敵するものとなりました。
1991年ごろの政府や日銀の日本経済に対する見解はまだ楽観的なものでした。バブル景気が減速したことを政府が公式に認めたのが1992年2月になってからです。しかしすでにこの時には、その後10年以上にわたって続くことになる「失われた90年代」が幕を開けていたのです。
株価は90年の年初から急落に転じていましたが、地価の上昇はまだ余韻が残っており、本格的な下落は1991年に入ってからです。下落のきっかけは、土地取引そのものへの規制、税制の強化、総量規制に代表される金融政策が複合的に作用したためです。しかしすでに上がるところまで上がり切っていた土地投機ブームがついに終わった、というのが本当の要因なのでしょう。東京圏の商業地の地価は1983年初めを100とすると、ピークの1991年には341.5にも達していました。
商業地の全国平均地価は、1992年が-4.0%、1993年が-11.4%、1994年が-11.3%にも達し、同じく東京圏では1992年-6.9%、1993年-19.0%、1994年-18.3%というたいへん大きなものになりました。地価は下がらない、という土地神話がついに崩れたのです。この結果、土地と株価の値下がり損は1998年末にピーク比で▲1200兆円という途方もない巨額の損失をもたらすことになります。
後に残されたのは借金の山です。借り入れによって土地投機を行っていた不動産会社、建設会社、ゴルフ場開発会社、ノンバンクは次々と返済不能に陥り、倒産の危機に直面してゆきました。株式運用に失敗して経営が立ち行かなくなった上場企業も続出しました。しかしそれ以上に深刻だったのが、土地を担保に融資を行った銀行やノンバンクの中で融資の焦げ付き(回収不能)です。これが90年代後半の不良債権問題、金融機関の大型倒産につながってゆきます。
1980年代後半の日本を舞台として起こった土地と株価の投機熱は、その事後処理にほぼ15年間を費やして現在は解決しつつあります。ここに至るまで多くの企業や個人が登場し消えてゆきました。国中を巻き込むような熱狂的な投機熱はいつどこでも発生すると言われます。バブルはふり返ってみた時に初めてバブルと判る、とも指摘されます。歴史の教訓を生かすしかありません。たいへん長くなりましたが、以上で「1980年代の日本はなぜバブル景気になったのですか?そしてなぜバブルは崩壊したのですか?」という質問への説明を終わります。
参考
「政策協調下の国際金融」 黒田東彦、金融財政事情研究会、1989年
「概説現代バブル倒産史」 北澤正敏、商事法務研究会、2001年
「平成金融不況」 高尾義一、中央公論社、1994年
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