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1980年代の日本はなぜバブル景気になったのですか?そしてなぜバブルは崩壊したのですか?(その4)

2005年12月13日

8.バブル発生の原因(二) 内需拡大策と地価の高騰

円高不況対策として日本が打ち出した対策は「内需拡大策」でした。アメリカは1970年代後半より日本に対して、産業のあらゆる分野で市場開放、門戸開放を働きかけてきました。とりわけ80年代に入ってからは、日本の経常黒字額が世界の中でも特出して目立つようになったため、日本の一人勝ちを見逃すことはできないという政治的な圧力が諸外国で高まるようになりました。アメリカは自国内で湧き上がる保護主義を抑える代わりに、日本も流通、金融、農産物などの分野に残っている壁を取り払えという「結果の平等主義」を求めるようになってきます。

そのひとつの例が1983年11月に設置が決まった「日米円ドル委員会」です。円ドル委員会では、先進国の仲間入りした日本の金融市場が海外に対していまだに閉鎖的な市場を保っていることを問題視し、日本の金融市場の開放や金利の自由化、いわゆる「金融・資本の自由化」を推進することを強く要求しています。

円高不況の真っ只中にあった1986年4月、後の世を大きく決定づける報告書が発表されました。アメリカが要求する内需拡大策に応えるために当時の中曽根総理大臣の肝いりでまとめられた「国際協調のための経済構造調整研究会報告書」です。研究会の座長であった前川春雄・元日銀総裁の名前を冠した「前川レポート」として知られる、非常に有名な報告書です。

中曽根政権はレーガン大統領とは「ロン・ヤス」のファーストネームで呼び合う間柄で知られるほど、日本とアメリカは政治のトップ同士では親密な関係を築いていました。この関係に基づいて、前川レポートが対米配慮型の政策を提言したことは決して不思議ではありません。

1980年代前半の日本はオイルショックの打撃を吸収したばかりの状況で、高度成長を支えてきた鉄鋼や造船、化学、繊維、海運などの重厚長大産業は、構造的な不況に直面していました。一方で電機、自動車、精密などの比較的新しい産業は、倍々ゲームで積み上がる経常黒字の元凶とみなされ、プラザ合意以降の激しい円高と海外からの市場開放圧力にさらされています。当時の日本は、将来はどうなってゆくのかまったくわからないという状況に置かれていました。

その閉塞状態を打開すべく打ち出されたのが「前川レポート」です。前川レポートでは、戦後40年間のうちに輸出主導によって急速な発展を遂げた日本が、経済構造を大転換させて、国際協調型の経済構造に自らを変革しつつ、持続的な成長を図ることを打ち出しています。国家の方針や国民の生活のあり方を歴史的に転換させるとの意気込みで作成されたこのレポートは、政官財学あらゆる方面に大きなインパクトを与えました。

前川レポートで示された具体的な構造改革の方策は、

  • (1)内需拡大策
  • (2)産業構造の転換
  • (3)輸入の推進、市場開放
  • (4)金融の自由化・国際化
  • (5)世界経済への貢献

などに要約されます。この中でも中核となったのが(1)の内需拡大策と(2)の産業構造の転換です。より具体的には、住宅対策、都市再開発、消費生活の充実(労働時間の短縮)、地方の社会資本整備、経済のサービス化、流通・金融市場の開放、などが主眼とされました。

後からふり返ってみれば、1980年代後半の日本は前川レポートの提言をほぼなぞらえるような形で経済構造の変革に突き進むことになります。レポートの内容を改めて読み返してみても、2005年の現在でも通用するような提言が随所に散りばめられています。それだけ革新的な内容のレポートだったということになるのでしょう。反面でそれは、日本国民の間に新たな日本の発展を確信させる期待感を生じさせ、壮大な土地投機を引き起こすひとつのきっかけにもなったのです。

この頃の東京では、将来、超高層ビル250棟分ものオフィスビルが必要になると試算されて、不動産業界は土地の確保に奔走しました。「内需拡大」という新たな経済発展の糸口を与えられて、真っ先に動き出したのは銀行業界でした。日米円ドル委員会において日本の金融市場の自由化、市場開放が突きつけられた銀行業界は、それまでの規制された預金金利、融資先との長期的な取引関係という穏やかな業界慣行から、ビジネス競争の真っ只中に放り出されることになったのです。

金利自由化の下では、資金の運用力、収益力の拡大が企業間競争を制する最大の武器になります。それを悟った大手銀行は、ハイリスク・ハイリターンの融資を増やすようになってゆきました。それが土地担保融資の激化です。折りしもプラザ合意〜ルーブル合意からのドル買い・円売り介入と、5回にわたる公定歩合の引き下げによって金融が大幅に緩和され、日本には「円高による過剰流動性」が発生しています。東京湾岸を中心に全国的に都市再開発ブームが沸き起こり、全国の地価は急騰を演じることになりました。

国土庁が発表する公示地価(毎年1月1日時点)によれば、全国の商業地の平均価格は1986年が前年比+5.1%でしたが、1987年には+13.4%、1988年には+21.9%へと上昇します。中でも東京圏の商業地は1986年が+12.5%、1987年は+48.2%、1988年は+61.1%という異常なまでの高騰を示しました。この間、卸売物価は円高によって継続的に下落しているため、いかに地価の上昇が急激に進んだかが見てとれます。

日本国中にあふれかえったマネーは株式市場にも流れ込みました。日経平均株価はプラザ合意の前年にあたる1984年末に1万1542円から、1985年末には1万3113円、1986年末には1万8701円になり、1987年末には2万1564円にまで上昇しました。東証1部・2部合計の時価総額は1984年末の161兆円から1987年末には336兆円に膨張し、1986年度の名目GDP(339兆円)とほぼ同額の水準までになっています。

この間、1987年2月には中曽根・行政政権の目玉であるNTTが株式市場に上場し、当初の政府保有株の売出価格(119.7万円)が1カ月後には301万円にまで高騰するというフィーバーぶりを演じました。NTT株の上場は国民の間で株式ブームが一気に広がるきっかけとなりましたが、空前の株式市場の活況をもたらした主役はここでも日本の金融機関でした。銀行と信託銀行が中心となってハイリスク・ハイリターンの株式運用を積極的に行った結果、昭和36年、昭和47年に続く「戦後3度目の大相場」と呼ばれる株式市場の活況がもたらされたのです。

日本では金利が戦後最低の水準に引き下げられ、景気も円高不況から思うように回復していない状況で、地価と株価が大きく値上がりするという状態が1986年から1987年にかけて起こりました。同時に国民の間では、日本は「内需拡大による成長」という新たな発展段階に向かっているのだという大きな希望が存在していました。その結果、企業も個人も、そして銀行までもが、借金を膨らませながら土地や株を買うという動きが日本中に広がったのです。

Q&A「1980年代の日本はなぜバブル景気になったのですか?そしてなぜバブルは崩壊したのですか?(その5)」へ続く

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