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1980年代の日本はなぜバブル景気になったのですか?そしてなぜバブルは崩壊したのですか?(その4)

2005年12月13日

4回目は、ルーブル合意、前川レポートから、日本のバブル発生を説明していきます。

7.バブル発生の原因(一) ルーブル合意と日本のカネ余り現象

プラザ合意で決定された先進国間の為替レートの調整は劇的な成功を収めました。プラザ合意前後に1ドル=240円前後だった円ドル相場は、1985年末には200円割れに、1年後には150円へと急激なドルの下落が実現しました。アメリカの貿易赤字の元凶はドル高と高金利ですが、その根っこにあるものは財政赤字です。その財政赤字に本格的なメスを入れることなしに、為替レートを調整することでまず貿易赤字から削減しようという試みが先進国間で合意され、実行されたのです。

さらにアメリカの意図としては、ドル建ての借金(財政赤字)を自国通貨を切り下げることによって相殺することにありました。当時、アメリカの国債を購入している最大の資金の出し手は日本でした。そこで先進国通貨の中でも、特にドルの対円レートの水準を切り下げることによって、アメリカは日本からの借金を事実上大幅に減らすことに成功したのです。プラザ合意は先進5カ国間の政策協調という形をとっていますが、実質的にはアメリカと日本との間での政策合意です。

アメリカはドルの大幅な下落によって、競争力を失っていた海外市場もいくつか取り戻すことができました。双子の赤字という世界的な不均衡の問題はこの後も残り続けるのですが、世界はドル暴落の瀬戸際からひとまず息をつくことができたのです。

1987年になると、すでにドルの下落は十分に進んだとする声が主要国間であがってきました。中でもアメリカは為替レートの調整は実現したものの、当初の目的であった貿易赤字の縮小は思うように進まず、それどころか逆に大幅なドルの下落はインフレ、高金利、景気後退、ひいては世界的なリセツションをもたらす危険性を帯びるようになってきたのです。加えて輸出のウェートの高い日本や西ドイツでは、通貨高による不況色が強まるようになってきました。

そこでこれらの問題に対処するために、1987年2月にG7参加国間で新たに「ルーブル合意」が交わされました。これはプラザ合意とは正反対で、140円〜160円の範囲にドルを安定させるという合意です。各国の為替レートがこれ以上の顕著な変動をすれば、ドルの下落に歯止めがかからなくなるという恐れが生じ、世界経済にとってマイナスの影響が大きいとの判断に立つようになったのです。

プラザ合意に基づいてアメリカの経済問題に全面的に協力した日本では、その副作用がどっと押し寄せることになりました。日本の産業は15%が輸出関連であるため、円ドルレートがプラザ合意をはさんでわずか1年間のうちに240円から150円まで円高に振れたため、国内経済は強い不況に直面することになりました。「円高不況」は日本でも政治問題になり、そこで日銀は不況対策として、1986年1月から1987年2月まで合計で5回の公定歩合引き下げを実施しました。この結果、プラザ合意前に5.0%だった公定歩合は、1年半後の1987年2月には戦後最低の2.50%まで急低下することになりました。

さらに日本は1986年3月以降、プラザ合意以降の為替介入を突然逆転させて「ドル買い・円売り」を実施するようになりました。すでにドルの水準は十分に下がっており、当初の目標にまで達したとの判断からですが、勢いのついた円高・ドル安の流れは止まりません。1987年暮れにはついに122円台まで円高が進みました。ルーブル合意では一定の相場圏を越えた時は、各国政府は為替介入に踏み切ることを盛り込んでおり、日銀はさらなるドル買い・円売り介入を続けることになります。

日銀の統計によれば、1986年に日銀が行ったドル買い・円売り介入の額は258億ドル、4.3兆円に達しました。これはまぎれもなく戦後最高額であり、4兆円を超える資金が市場に流れ出し、それだけマネーサプライが増加することになりました。しかも日銀が行った5回の利下げのうち、後半の3回はアメリカとの協調利下げ、あるいはアメリカからの要請を受けての利下げというものでした。急激な利下げと介入資金によるマネーサプライの増加によって、1980年代半ばの日本は猛烈なカネ余り現象、すなわち「円高による過剰流動性」が発生することになったのです。

ご注意:「いま聞きたいQ&A」は、上記、掲載日時点の内容です。現状に即さない場合がありますが、ご了承ください。


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