2005年12月13日
当時、日本とアメリカは自動車や半導体という基幹産業の分野で、最大の得意先でもあり、かつ最大のライバル関係でもありました。日本はドル高・円安を背景に対米輸出を拡大させ、アメリカとは正反対に大幅な経常黒字を記録していました。日本の経常収支は1979年から80年にかけて赤字でしたが、レーガン政権が誕生した1981年には黒字に転換し、1986年には前年比で2倍近く伸びて858億ドルの黒字を記録しています。まさにアメリカとは正反対の足取りをたどっています。
一方でアメリカの民間企業は、ドル高・高金利を避けて工場を海外に移転させています。アメリカは国内の生産活動が空洞化して、ますます海外からの輸入品に頼るようになってゆくのですが、それが労働者の雇用にも悪影響を与えるようになってしまいました。自動車や半導体という基幹産業の分野で、急速に力をつけてきた日本と貿易摩擦が激しくなってゆきます。
経常収支の赤字拡大と高金利がアメリカ経済の大きな負担となっているのは誰の目にも明らかです。輸入品の増大、製造業の海外移転によってアメリカ国内の雇用機会が失われており、これは次第にアメリカの議会でも大きな問題になりました。1985年春以降、赤字の元凶と見られていた日本への対日批判や保護主義の高まりが積み重なってゆくのです。
1985年9月22日、米、日、独、英、仏の5カ国の大蔵大臣と中央銀行総裁がニューヨークのプラザ・ホテルに極秘で集まり、アメリカの抱える経済問題を討議しました。提唱者はアメリカのベーカー財務長官で、日本からは竹下登蔵相と澄田智日銀総裁が出席しました。そこで次の点で合意に達しました。
これが後の世に大きな影響を与えることになった「プラザ合意」です。プラザ合意は、それまでのドル高が経済の実態とはかけ離れたものであり、それを是正する必要があることをアメリカを含めた先進国の主要5カ国が認めたという点で非常に大きな意味があります。しかもそのためには5カ国がそれぞれ具体的な政策を掲げて、協調して行動する形をとったという点において実に画期的なものでした。
プラザ合意の直後から5カ国は大規模なドル売り協調介入を実施しました。日銀も週明けから史上空前のドル売り円買い介入を行い、ここから急激なドル安・円高が始まったのです。9月24日に1ドル=242円だった円ドルレートは9月30日には一気に1ドル=216円まで上昇し、12月31日に1ドル=200円を割り込んで199.95円まで進みました。
翌1986年も年明けから円高・ドル安が進み、2月初旬に190円割れ、3月中旬に175円割れ、5月には160円割れまで上昇しました。その後、アメリカのベーカー財務長官より「ドル高の是正はほぼ達成した」との発言がありましたが、8月に発表されたアメリカの貿易赤字が大幅に拡大したこともあって、9月には当時の史上最高値である1ドル=151円台まで円は上昇しています。
プラザ合意は、先進5カ国が政策協調を発動して為替レート調整を行うという意味で画期的なものでしたが、さらに言えば、世界経済に不安定をもたらしている対外不均衡(アメリカの赤字、日本の黒字)を是正するために、為替レートの調整を使って達成するという点でも大きな政策の転換があったと言えます。それまでの伝統的な考え方は、為替レートはマーケットが決定するものであって政府が直接関与するものではないというものでした。
同時にプラザ合意では、5カ国がそれぞれの国の政策を先進国共通の利害のためにすりあわせて実施する「政策協調」の形を打ち出しました。ここでの政策協調とは、アメリカ側は「財政赤字を縮小する、税制改革を実施する、保護主義的な措置に抵抗する・・」というものを行い、日本は「円レートに配慮しつつ弾力的な金融政策を運営する、財政赤字を削減する、民間活力を発揮して内需拡大に努力する・・」というものです。プラザ合意の後にも先進国蔵相会議(G5)はG7に発展して政策協調的な意思決定が行われていますが、この時ほどの強い合意と協調行動が実施されたことはその後あまり例を見ません。
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