1. 先駆者たちの大地

先駆者たちの大地

株式会社東芝

1799~1834年 感情的なからくり~からくり儀右衛門、デビュー

久留米市教育委員会所蔵

東芝の創業者・田中久重が、江戸時代後期に作ったからくり「弓射り(曵)童子」。人形が自分で矢を取り上げ、つがえて、的を射る。頭部の細かな動きによって、射手の満足げな様子が再現される[久留米市教育委員会所蔵]

「弓射り(曵)童子」と呼ばれる、江戸時代に作られたからくり人形がある。ゼンマイ仕掛けの人形が矢台に置かれた矢を自分で取り上げ、弓を絞って的を射る。人形は4本の矢を順番に放って的に当てていくのだが、その生き生きとした動きによって、動かないはずの表情すら満足げに微笑んでいるように見える。からくり人形のなかでも、間違いなく最高傑作のひとつといってよい。しかし、この人形が秀逸なのはその精密な動きだけではない。人形は、4本の矢のうち1本をわざと的からはずし、観客の予想を見事に裏切ってみせるのだ。細かな動きによって、その時の人形はあたかも悔しがっているようですらある。そしてこの意外な心にくい演出に、観客は的が当たった時以上の反応を見せる。
この人形を製作したのは、「からくり儀右衛門」と呼ばれた天才発明家、田中久重(たなかひさしげ)である。久重は優れた技術者であったが、ただ高度な技術の開発を目指していたのではなかった。常に彼の心にあったのは、技術によって人を喜ばせたいという思いである。そして今、創業から130年を経て、この「人を喜ばせる技術」という理念によって変わろうとしている企業が、後に田中久重が創業した東芝である。

久留米絣と井上伝肖像画

久留米絣[(財)久留米地域地場産業振興センター所蔵](左)と井上伝肖像画[久留米絣協同組合所蔵](右)

田中久重は、1799年(寛政11年)、久留米のべっこう職人の長男として生まれ、幼名を岩次郎(一説によると儀右衛門)といった。幼い頃から手先が器用で、8歳の時には、寺子屋仲間が久重の硯箱にいたずらをするのに業を煮やし、紐の細工によって鍵がかかる「開かずの硯箱」を作って仲間を驚かせた。しだいに発明の才に目覚めた久重はさまざまな箱細工を作り、14歳の時、近所に住む久留米絣の考案者・井上伝に頼まれて、絣に絵模様を織り込むための織機を完成。久重は発明家としての自信を深めていった。久重がからくりを作り始めたのもこの頃である。久留米藩城下の五穀神社では春と秋に盛大な祭礼が行われていたが、そこで人気を博したのがからくりであった。久重はここでからくりと出会う。人形が手にしたお盆にからくり師が茶碗をのせると客の前まで運び、客が飲み終わった茶碗を再びお盆にのせると戻ってくる。久重はこの茶汲み人形に魅了され、からくりづくりに心を奪われた。久重の父・弥右衛門が長崎土産に買ってきた『機巧図彙』という本を参考に、久重は、茶汲み人形を再現するだけでなくさまざまなからくりを作り、五穀神社で披露した。こうして久重はからくり興行に出品するようになり、その精巧な仕掛けと独創性は絶賛された。久重21歳、「からくり儀右衛門」と呼ばれるようになった頃のことである。

からくり興行の引札

からくり興行の引札(広告)[国立科学博物館所蔵]

からくり師として身を立てる決意を固めた久重は、からくりに新機軸を導入するため、長崎、大阪、京都、江戸へと技術修得の旅に出かけた。1820年(文政3年)の江戸への旅では、オランダ渡来の空気銃「リクトパルレン(風砲)」を模造し、空気圧ポンプの技術を修得。結果的に、こうした旅は久重のなかに近代技術者としての萌芽を形作るものとなっていった。かくして一流のからくり技術を身につけた久重は、1824年(文政7年)から諸国を興行し、「からくり儀右衛門」の名を全国に知らしめた。特に大阪・道頓堀での興行は50日に及ぶロングランと、大成功を収めている。
しかし天保年間(1829年~)に入り各地で藩政改革が始まると、娯楽や贅沢品は取り締まりを受けるようになり、からくり興行も難しくなってきた。そこで久重は新たに実用品の製作・販売を始めようと、1834年(天保5年)、妻子を連れて大坂へと旅立った。久重35歳。いよいよコンシューマー(一般消費者)ビジネスの始まりである。

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IRマガジン2005年夏号 Vol.70 野村インベスター・リレーションズ

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