1. 先駆者たちの大地

先駆者たちの大地

資生堂創業者 福原有信・初代社長 福原信三

1931-1948年 戦争が生活文化を押しつぶす

その間にも、世界恐慌と戦争の足音が迫っていた。不況の深刻化で、昭和6年には、『資生堂月報』を休刊し、資生堂美術展も休止する他なかった。
廉価品シリーズも発売した。信三社長は、「だからといって安物を考えてはいけない。高価なガラス容器は使えなくても、気持ちは“リッチ”に」とパッケージデザインの手を抜くことはなかった。

景気がやや回復すると、最高級品『ドルックス』、マリーネ・ディートリッヒを広告に起用した『クリーム白粉』などを発売し、『資生堂月報』を『資生堂グラフ』として復刊した。マネキンガール(キャンペーンガールのはしり)やミス・シセイドウ(ビューティーコンサルタントの前身)の募集、顧客の友の会である『花椿会』づくりなどに精力的に取り組んだ。
昭和11年には、ニューヨークの百貨店・マーククロスで化粧品販売を行うなど海外進出も実現した。
こうした成果をあげたものの、戦時色はいっそう強まっていった。昭和15年の奢侈品禁止令で、5円以上の香水など23品目が製造禁止となった。容器もガラス材料が軍に供出され、紙やベークライトになった。『花椿』(『資生堂グラフ』を改題)は休刊し、石鹸、歯磨、蚊とり線香などでしのがざるを得なくなった。それでも文化の孤塁を守るかのように、資生堂ギャラリーは昭和19年まで開かれた。
昭和20年8月、ようやく平和が戻ってきたが、今度は極端な物資不足だった。その日の糧を得ることだけで精一杯の時代だった。
そうしたなか、資生堂は、昭和21年1月に広告を再開し、銀座にネオン看板を高く掲げた。人はただ生きるにあらず、生きるに値する暮らしこそ必要だという信念からであった。真っ白なブラウスに面をあげて微笑む原節子のポスターは、新しい女性の輝きにあふれていた。
資生堂が明治、大正、昭和を通じて実践してきたことは、西洋と東洋の美と知を融和し、新しい生活文化の提案を通じて、旧い因習から女性を解き放つことであった。その本当の時代がやってきたのを見届けて、昭和23年、福原信三は65年の生涯を閉じた。
“西と東の美と知の融合”は、海外59カ国で事業を展開する資生堂の永遠不変のテーマである。(文中敬称略)

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IRマガジン1998-9年12-1月号 Vol.35 野村インベスター・リレーションズ

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