1. 先駆者たちの大地

先駆者たちの大地

資生堂創業者 福原有信・初代社長 福原信三

1916~1922年 「資生堂五大主義」のもとで

七色白粉

『七色白粉』(大正6年・1917年)
白粉は"白"の固定観念を払拭した。

これ以降、化粧品に事業主体を移すことにした信三は、翌5年に意匠部を発足させ、美術学校の学生や若手画家をスタッフにして、ポスター、新聞広告、パッケージデザイン、店舗設計などを始める。信三自身、社長室とは別に意匠部にもデスクを置き、アール・ヌーボーを基調にしたモダンで洗練された資生堂調のデザインを総指揮した。「商品をしてすべてを語らしめよ」が口癖で、“商品”を伝える商品名、容器、パッケージすべてに神経を使った。

『花椿マーク』の原型も信三がデザインした。それまで資生堂は『鷹』のマークを使っていたが、化粧品事業にふさわしいモチーフとして、人気商品の『香油 花椿』にちなんで椿が選ばれた。信三の弟の信義(福原義春会長の父)によると、信三は、水を張ったガラスの器に椿の花を浮かべて、スケッチを繰り返しながら構想を練ったという。当時の会社や商店は、家紋などのデザインがほとんどだったから、資生堂の『花椿マーク』は斬新だった。 香水製造も始まった。大正7年の広告には『梅の花』『藤の花』『匂ひ菫』など21種の香水が記されている。当時の香水は舶来品かその模造品がほとんどで、梅、藤、菫といった日本的な香りは新鮮だった。雪の女王の艶やかなイメージを香りに表現した『雪姫』は独創的だった。この時代、“白粉は白”という常識を破る『七色白粉』も商品化した。

梅の花

香水『梅の花』(大正7年・1918年)
日本の香りがイメージされた。

新商品は、第一次大戦の影響で舶来品の輸入が途絶したこともあって飛ぶように売れた。その好調な事業を背景に、信三は、現在のメセナ(文化支援活動)につながる生活文化に関する多彩な事業を開始する。
大正8年には商品陳列場を開放して、「資生堂ギャラリー」をオープンした。若手芸術家に発表の場を無償で提供するもので、現在までに5,000人以上の作家の作品が展示されている。その他、与謝野晶子ら文化人による銀座に関するエッセイ集『銀座』、北原白秋、吉井勇、西条八十らの執筆になる童謡、童話を掲載した雑誌『オヒサマ』を刊行するなど、流行の担い手を超えて、美しい生活文化の創造と発信に力を注いだ。この信三の精神は、大正10年に制定した資生堂五大主義『品質本位、共存共栄、消費者、堅実、徳義尊重』に凝縮されている。 事業面でも、大正11年に美容科、美髪科を新設し、『資生堂石鹸』、『資生堂コールドクリーム』を発売した。翌12年には全国規模のチェインストアづくりも始まった。

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IRマガジン1998-9年12-1月号 Vol.35 野村インベスター・リレーションズ

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