1. 先駆者たちの大地

先駆者たちの大地

日新製鋼株式会社

日本初のステンレス一貫生産体制

建設中の徳山工場

建設中の徳山工場

鉄はそのままの状態では錆びる宿命にある。それを防ぐために表面に亜鉛めっきを施したものが亜鉛鉄板で、その将来性にいち早く着目していたのが先に登場した佐渡島英禄らである。佐渡島らは1911(明治44)年5月、日本で最初の民間亜鉛鉄板メーカー、亜鉛鍍株式会社を大阪市南区で立ち上げた。これが日新製鋼のもうひとつの源流である。当初は年間600トンの生産がやっとという小規模な設備で苦しい経営だったが、苦心の末、半年ほどで生産は軌道に乗り始めた。第1次世界大戦が始まり軍需が増大すると、亜鉛鍍は原板の自給自足を目指して薄鋼板圧延に着手することを決定し、徳山分工場を新設して1918(大正7)年から圧延作業を開始した。この間、1916(大正5)年には大阪鐵板製造株式会社へと商号変更を行った。しかし原板の自給自足体制が整わないまま、1927年から底なしの不況に突入し、大阪鐵板製造は苦しい戦いを続けていた。そこで徳山分工場の分離独立を決意し、1928年、大阪鐵板製造は亜鉛めっきメーカーの大阪鐵板製造と薄鋼板単圧メーカーとしての徳山鐵板とに分離された。その後、1951年9月のサンフランシスコ条約で日本が独立を取り戻すと、鉄鋼業界では第1次合理化が始まり、大阪鐵板製造と徳山鐵板はこの趨勢を背景に合併を果たし、1953年10月、日本鐵板株式会社として正式発足した。

完成した南陽工場のセンジミアミル

完成した南陽工場のセンジミアミル

1950年代後半に入って日本は新しい成長の段階を迎え、1956年から鉄鋼第2次合理化が始まった。この時、日本鐵板は、まったく未知の分野への進出計画を発表した。ステンレスの一貫生産計画である。電気炉から熱間圧延のホットストリップミル、冷間圧延のセンジミアミルまでが一連となって稼働し月産2,500トンを生産する。当時国内のステンレス生産量が月産2,000トン前後だったことを考えれば、1社で全国生産量を上回るこの計画がいかに壮大なものだったかわかる。通産省(現・経済産業省)の承認を取り付けた日本鐵板は、40億円の予算を投じて1957年11月から山口県南陽町で工場建設を開始し、翌年6月に1号センジミアミルが完成した。これは日立製作所が製作した国産第1号機であると同時に、日本初の広幅圧延用センジミアミルであった。こうして1958年12月に発売された広幅極薄ステンレス板は、高精度・高品質で価格も安く、爆発的ヒットとなった。日本初のステンレスの一貫生産体制がこうして実現したのである。

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IRマガジン2005年秋号 Vol.71 野村インベスター・リレーションズ

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