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| 三井財閥の拠点、三井本館。1923年の関東大震災で被害を受け、新しく建設された建物 |
三井財閥の開祖、三井八郎兵衛高利は、1673年、江戸本町に越後屋呉服店を開業して成功し、続いて為替両替業でも成功を収めていた。当時、関西地区は銀貨幣、江戸地区は金貨幣制度が基本であったが、大阪―京都―江戸間で金銀を現物輸送するのは時間がかかるうえ、途中で強奪される危険も伴う。そこで金銀を現送することなく、為替で決済しようというものである。高利が考案したこの為替システムは、江戸時代の金融制度としては画期的なもので、明治維新まで続けられる。もちろん、この時の越後屋呉服店が後の三越であり、為替両替商が、日本で最初の民間銀行となる三井銀行である。1871年(明治4年)、明治政府は金本位制を実施し、三井は、新旧貨交換と新貨幣鋳造の仕事を一手に引き受けた。貨幣鋳造用の原料は各地の鉱山から金、銀、銅地金を買い付けて調達していたが、その買い付け先のひとつ、岐阜県飛騨山地の神岡地区で稼行していた中西組が倒産し、1874年(明治7年)、三井はこの事業を引き継ぐこととなった。これが三井が鉱山経営に乗り出した最初であり、三井金属の発祥である。
続いて1876年(明治9年)7月1日、三井銀行が開業し、同時に三井物産が設立された。三井物産は三池炭鉱の石炭の輸出で大きく発展したが、1889年(明治22年)、その三池炭鉱が政府から民間へ払い下げられることになり、石炭輸出を主力事業としていた三井物産は是が非でもこれを入手しなければならず、やっとの思いで落札に成功。こうして、鉱山事業の両輪となる2つの鉱山が出揃ったのである。その後、鉱山事業は飛躍的に発展し、もはや三井銀行や三井物産の経営では手が回らなくなってきたため、1892年(明治25年)、三井鉱山合資会社を設立、翌年には三井鉱山合名会社に改組、そして1911年(明治44年)12月16日、三井鉱山株式会社が設立された。この後、三井鉱山は、三井銀行、三井物産とともに、三井の主力3社として重きをなすことになる。設立の翌年は、当時としては突出した総収入1,569万円で、年間70万円を配当し、鉱山会社として不動の地位を確立した。この頃、石炭、鉛、銀に加え、新たに亜鉛鉱の収益も安定するようになり、三井鉱山は、やがて世界一の亜鉛メーカーに発展していくことになる。
IRマガジン2001年9-10号 Vol.51 野村インベスター・リレーションズ