2006年6月28日に会長に昇任した中村邦夫は、1987年9月、48歳の時に突如アメリカ松下電器(株)パナソニック社への赴任を命じられ、その後10年間、同社社長、イギリス松下電器(株)社長などを歴任して海外で過ごした。海外市場で厳しい競争を目の当たりにし、松下電器を外側から見つめることができたためかもしれない。1997年に帰国した時に中村を待っていたのは、過去の成功体験から抜け出せずにいる自社の姿だった。2000年6月、中村は社長に就任し、11月には中期経営計画「創生21計画」を発表したが、その内容は「破壊と創造」をスローガンとするドラスティックな改革のシナリオだった。「経営理念以外は何を壊してもいい」という考えのもと、事実、改革のメスは、雇用、事業、組織、流通とあらゆる領域に及んだ。中村は時代に合わなくなった松下の経営システムを破壊し、ITを駆使し、「重くて遅い」松下から新しい時代に対応できる「軽くて速い」松下を創造しようとしていたのである。それは激しい改革だった。家族主義といわれ雇用を守ることを大原則としてきた松下電器で、初めて早期退職も実施した。そして、創業者の遺したものだからとこれまで聖域となっていた家電流通体制や事業部制も、例外とはならなかった。
![]() |
| 世界のPanasonicブランドとして、ニューヨークでも人気を博す |
専門店は50年代に組織化され、販売に強い松下の原動力となっていた。しかし、すでに家電の販売は小売店から量販店にシフトしていた。専門店は1983年当時、2万7,000店あったが、現在1万9,000店と減っている。そのような変化する市場に対応するために、2001年4月、テレビやデジカメなどPanasonicブランドのAV機器を扱うパナソニックマーケティング本部と冷蔵庫や洗濯機などナショナルブランドの白物家電を扱うナショナルマーケティング本部を設立した。事業部ごとに営業部門を持っていた以前の重層的な家電流通体制を、「軽くて速い」ブランド別マーケティング本部体制に変えた。商品の販売責任を持つマーケティング本部は、事業部に対し商品買取制度を持ち、一元的に宣伝、広報、販売促進などを担当することとした。その結果、市場の声を商品企画に活かせるマーケットイン体制となった。また、専門店に対しては2003年4月から「スーパープロショップ制度」を導入し、経営に意欲と責任のある専門店にはV商品と呼ばれる戦略商品の販売や事業拡大の支援、顧客データ管理のノウハウの提供など「平等から公平」への体制に変えた。幸之助の遺産として聖域中の聖域といわれた国内家電流通に、中村は初めて改革のメスを入れたのである。
事業部は製品ごとに縦割りの組織として分かれていた。この体制は、製品がそれぞれ独自の技術を持ち、はっきりと個々の商品が独立し、市場を形成していた時代には事業拡大の推進力として機能したが、今や社内競合と事業の重複がムダを生み出していた。例えばラジオカセットテープレコーダーの争いである。ラジオ事業部と録音機事業部がお互いに譲らず、両事業部がそれぞれ製品を作り出した。松下電器の事業部にグループ企業の衝突も加わり、ワープロは同じ松下グループ内で3種類も存在し、ファクスは「パナファクス」と「おたっくす」という2種類のまったく別々の製品が販売されていた。こうした事例があちこちに見られ、年間で約1兆円分の事業が重複していたという。さらにテレビとレコーダー、カメラ、PCというようにさまざまな製品がネットワーク化されつながることにより、新たな価値を生み出すようになってきた時代においてはかえって事業部制は負の遺産となる。中村は事業の重複、分散の排除と開発リソースの集中、顧客との距離を縮め、俊敏に対応するための開発・製造・販売の一元化をすべく、上場会社4社を含む主要関連会社5社を完全子会社化して、事業領域ごとに14の事業ドメイン体制を構築した。それぞれのドメインが、自己完結型に意思決定を行える体制となり、市場の声に迅速に対応できるようになった。
![]() |
| 「ビエラ」のSDネットワーク |
IRマガジン2006年春号 Vol.73 野村インベスター・リレーションズ