松下電器の社史を開くと、そこに掲載されている写真の多さに気づかされる。大阪府門真市にある松下電器歴史館でも創業当時からのさまざまなスナップや記念写真を見ることができる。まるで家族の記録のようだ。高度経済成長とともに躍進した日本企業のなかで社員はいわば家族だった。そうした日本的経営のシンボルともいえる松下幸之助の経営とはどんな経営だったのか。
![]() |
| 第一次世界大戦後の恐慌や労働運動が激化するなか、従業員全員が心をひとつにする目的で結成された「歩一会」。写真は春期行事の記念写真 |
当時、幸之助が目指したのは大量生産によるもの不足の解消と社会の繁栄である。水道の水のように無尽蔵にものを作れば製品は安価になり、社会は豊かになる。これが幸之助の唱えた有名な「水道哲学」である。
その根幹を成すのが事業部制であった。1933年、幸之助は事業を製品分野別に3つに分けて自主責任体制をとる独自の事業部制を考案した。日本では、これが初めての事業部制の採用といわれている。各事業部は、それぞれの傘下に工場と営業所を置き、製品の開発から生産、販売、収支まで、一貫して責任を持つ独立採算制の事業体となった。幸之助は事業部制の狙いを2点あげている。自主責任経営の徹底と経営者の育成である。いわば事業ごとにその領域だけを見る経営者がいるわけで、製品ラインアップが拡大し事業がしだいに多角化していく時、こうした事業部制は有効に機能する。高度成長に即した攻めの経営手法である。
![]() |
| 1950年以来初めて減収減益となり、販売会社、代理店も赤字経営に陥るところが激増した。この事態を打開するために、64年に販売会社、代理店の社長との懇談会が行われ新販売体制が敷かれた。世にいう熱海会談である。 |
事業拡大の根幹を成す事業部制とともに、幸之助の経営の両輪となっていたのが、系列専門店体制である。戦前からあった松下電器の専門店は戦争によってほぼ解体されたが、高度成長の始まる50年代に復活した。こうした専門店は松下電器との共存共栄を旨とし、松下電器は販売網を組織化することによって安定した価格で製品を大量に販売することができた。大型量販店のなかった時代にメーカーにとって系列店のメリットは大きく、高度成長期には他メーカーも系列店の組織化を図ったが、先駆者である松下電器には及ばなかった。松下電器の専門店には幸之助の信奉者も多く、それはメーカーと流通がいわば家族のように一体となった強固な組織だったのである。
戦後の経済成長の波に乗り、家電製品は庶民の夢を乗せて大量生産され、日本はアメリカに次ぐGNP世界第2位の経済大国となった。ものづくりによって社会を豊かにするという幸之助の願いは達成され、松下電器は劇的な発展を遂げて日本を代表する企業となっていた。しかし大量消費社会から次のトレンドへ、時代は変化しようとしていた。1973年の第一次オイルショックを契機に、2ケタ成長の時代は終わった。ものを作れば売れるという時代ではなくなり、大量生産を基調とした松下電器の戦略は、しだいに時代とかみ合わなくなってくる。1990年代以降、松下電器は低迷の時代に入り、2001年度に創業以来の赤字を計上することになった。
IRマガジン2006年春号 Vol.73 野村インベスター・リレーションズ