1. 先駆者たちの大地

先駆者たちの大地

イビデン株式会社 初代社長 立川勇次郎

1938~1960年 電力国家管理の時代へ

電力国家管理を報じる新聞

電力国家管理を報じる新聞
(1941年9月10日付朝日新聞)

昭和に入って世界恐慌の波が押し寄せると、電力は過剰となり、電力各社は激しい企業競争を展開して、経営は悪化する一方となった。しかし電気事業はきわめて公共性の高いもので、競争激化による電力各社の無益な疲弊は国益を損なうことになる。そのため電力の国家統制の必要性が論じられるようになり、電力業界はいよいよ統制時代への転換期を迎えようとしていた。その頃揖斐川電気ではカーバイドとカーボンの伸びが著しくなり、1938年には電気化学事業の収入が電気事業の収入を上回った。このため揖斐川電気株式会社という社名は社業の実態とそぐわないものとなり、1940年1月、商号を揖斐川電気工業株式会社に変更した。
その間、1937年に日中戦争が始まると、日本の経済は戦時体制に移行した。そのための最高法規として1938年に「国家総動員法」が施行され、同時に「電力管理法」が施行されて、ついに電気事業の国家管理が始まった。発送電施設ならびに配電施設のすべてを国家に現物出資しなければならなくなったのである。揖斐川電気工業は5つの発電所を持っていたが、実際には発電量の3分の2を自社の電気化学事業のために自家消費していたため、3つの発電所を自家消費用に残し2つを現物出資した。こうして1942年4月1日、揖斐川電気工業は創業以来の電力供給事業を廃止し、電気化学工業を事業主体とする新たな企業として歩みを開始することになったのである。

カーバイドとカーボンの進展
戦後、揖斐川電気工業は発電所や工場の一部が戦災に見舞われたもののいち早く生産を再開することができた。政府は鉄、石炭、肥料を三重点産業として取り上げたが、これらと関連の深いカーバイド、化学肥料、合金鉄などの事業が幸先の良いスタートを切った

カーバイド工場(1950年代)

カーバイド工場(1950年代)

カーバイドは石灰窒素の原料として増産され揖斐川電気工業復興の大きな力となったが、1950年代後半の高度成長期に入ると、新たな用途として塩化ビニールの原料に利用されるようになった。その結果、揖斐川電気工業のカーバイド生産量は1955年の3万4,000トンから1964年には12万6,000トンへと著しく増加した。また1949年には、カーバイドを原料とする有機合成化学分野への進出を目指してメラミンの研究に着手し、1954年10月、月産20トンの設備で生産を開始。さらに1960年からは初の加工品としてメラミン化粧板の製造を開始し、建材事業へと進出した。

カーボン工場(大正時代)

カーボン工場(大正時代)

カーボンについては、戦時中、探照灯の光源用カーボンを揖斐川電気工業がほぼ独占的に生産していたが、戦後、軍需向けの生産が中止となってからは映画用カーボンの需要が急激に増加した。揖斐川電気工業のカーボンは1950年代には「イビガワカーボン」のブランド名で映画用カーボン市場のトップブランドとなり、1955年以降も一層の伸びを示していた。しかしその隆盛も1950年代末までで、テレビの急速な普及とともに映画の人気も陰りを見せ始め、カーボンの需要もしだいに落ち込んでいった。1960年代に入ってからは映画用カーボンに代わって溶接作業に使われるガウジングカーボンが伸び始め、揖斐川電気工業はこの分野でもトップの座を確立した。

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IRマガジン2003年秋号 Vol.63 野村インベスター・リレーションズ

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