1. 先駆者たちの大地

先駆者たちの大地

日立製作所創業者 小平浪平

1874~1905年 如何にして大々的事業を為さん

日鉱記念館

日立鉱山発祥の櫓
(日鉱記念館)

日立市街から宮田川に沿って山道をいく。日立製作所山手工場の脇を抜け、日鉱金属の製錬所を過ぎたあたりから渓谷の様相になる。さらに登っていくと、本山トンネルの左手前の山腹に、陽光を浴びてシルエットになった櫓が姿をあらわした。ここが、日立鉱山の発祥の地である。
明治38年(1905年)、久原房之助は、当地で細々と銅を採掘していた赤沢鉱山を買収した。久原は「山相に惚れたからだ」と語ったが、先年、廃鉱寸前だった藤田組小坂鉱山を、竹内維彦が開発した新式の製錬法を導入して立て直したという自信があった。果たして、本山には次々と良鉱が発見され、久原鉱業所日立鉱山(現、ジャパンエナジーのルーツ)はまたたくまに日本有数の銅山に発展した。ここで、工作課長を担当していたのが小平浪平だった。

小平浪平は、明治7年、栃木県下都賀郡の素封家に生まれた。父の惣八は、塗料工場などに手を出しては失敗し、多額の借財を残して明治23年に病没した。兄の儀平は第一高等中学校(後の第一高等学校)に通う秀才だった。浪平も東京英語学校に通っていたが、最早二人を遊学させることは困難だった。儀平は学校をやめ、地元の銀行に勤めた。
翌年、浪平は第一高等中学校に進んだ。兄の断念と引き換えの進学だったが、テニスに興じ、ボートに野球に明け暮れる日々だった。旅行も盛んにした。美術にも関心があった。そんな浪平だから、学業は順調とはいえなかった。東京帝大電気工学科に進んだものの、写真機に凝って落第も経験した。その嫌悪感で、第一高等中学入学以来したためてきた『晃南日記』を絶筆した。
その『晃南日記』に「余は元来空望を好まず。一畝の田、一歩の林、故山に帰臥して父老と相親しむは余が年来の宿望なりき。今は早其心なきなり、否無きに非ず、其望を達するの前に、如何にしても大々的事業を為さむと欲する念強くして、遂に故山に帰るの期を想ふに及ばざるなり。其大々的事業とは果たして何なりやは今に於て謂ふを得ざるなり」と記しているように、大望をもてあましつつも汲々と生きたくはないという気持ちが見える。そんな浪平を理解し励ましつづけた母の千代や儀平の慈愛にみちたまなざしも、この日記の行間から切々と伝わってくる。

board

IRマガジン1998年10-11月号 Vol.34 野村インベスター・リレーションズ

  1. 前へ
  2. 1
  3. 2
  4. 3
  5. 4
  6. 5
  7. 6
  8. 次へ

目次へ