焦土からの復活は早かった。終戦5日目にはポンプ生産を再開する。
「風水力機械は、元来、平和産業に大きな使命を持っている。産業の復興は急務であった。炭鉱の復旧、電力の増強、食料の増産、水道の増設など」のために、軍需用資材を転用して農業ポンプ中心に事業を立て直していった。さらに電気製塩装置や製糖装置、空気コンベヤーなどの産業プラントも製品化していく。
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| 流動床ガス溶融システム実証プラント |
しかし、戦争による技術の停滞は大きく、ポンプ技術で外国は「20年分を突き進んでいた」(「熱と誠」)。この空白を埋めるべく、再び技術の挑戦が始まった。もう国産化を金科玉条とする時代ではない。
1956年に米国インフィルコ社と合弁で「荏原インフィルコ」を設立し、本格的に水処理事業に参入。輸出でも、1961年にスエズ運河への5,000馬力浚渫ポンプの納入をはじめ、徐々に世界に伍す実力を蓄えていった。
そして、環境総合エンジニアリング企業への道を開いたのは、高度成長時代に生じた公害問題への対応からである。70年代になって従来法にない、乾式でシンプルな電子線ビーム排ガス処理装置を開発し始めた。副生品(硫安、硝安)が農業用肥料として有効利用できる。これが「ゼロエミッション」の原点といえよう。
88年に就任した藤村宏幸社長(現会長)は、「日本は『環境技術立国』をめざすべきで、荏原も『環境総合エンジニアリング企業』として一端を担っていきたい」と語った。創業以来培ってきたポテンシャルを生かし、循環共生型のゼロエミッション社会への貢献を社是として「持続する成長」をめざす高らかな宣言であった。
藤村社長のもと、中期経営計画「ACT」が策定され、環境保全の「エンジニアリング事業」に注力する一方で、成長分野の半導体製造分野に焦点を絞って「精密・電子事業」が強化された。とりわけ、ゴミ焼却炉をはじめ環境技術で最先端をいく荏原は、98年にゼロエミッションの中核技術である「流動床ガス化溶融技術」を欧州の重電プラント大手・アセア・ブラウン・ボベリ社に技術供与する契約を結んだ。わが国の燃焼技術の多くが欧米からの導入であるなかで、稀有な出来事であった。
IRマガジン2000年5-6月号 Vol.43 野村インベスター・リレーションズ