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| 1954年10月21日、オープン当日の東京店に人々がどっと詰めかけた |
1945年に第2次世界大戦が終結し、百貨店業界は1950年代に入った頃から元の姿を取り戻す。設備、商品にも華やかさが戻ってきて、戦後の成長産業のひとつとなっていく。大丸はかねてから東京進出の機会をうかがっていたが、折から東京駅八重洲口で駅ビル建設の計画が持ち上がっていた。12階建て、6万6,000m2と当時としては東京最大の規模で、国鉄は大口の借り主を探しており、大丸はすぐに名乗りを上げて、いよいよ東京進出が決定した。1954年10月20日、東京駅八重洲口に、江戸店撤退以来44年ぶりに大丸東京店が開店した。営業初日は八重洲口広場に長蛇の列ができ、30万人が来店する華々しいスタートとなった。
この頃から日本は高度経済成長の波に乗り、大衆消費社会が急速に進展した。百貨店は新しいライフスタイルを実現する眩いほどの存在となり、大丸はこうした勢いの先頭に立って、1960年下期から1968年下期までの8年半、連続して小売業売り上げ日本一の記録を樹立した。しかし、追い風もここまでであった。73年に第1次オイルショックが起こり、大衆消費社会の風向きが変わった。百貨店業界は高度成長期の売り手主導が通用した経営環境にどっぷりと浸かったままで、時代の変化に対応することができなくなっていた。その後、バブル期を通過しバブル崩壊、長期不況の只中にあって、依然として新たなビジネスモデルを構築できないまま、百貨店は構造不況業種のひとつに数えられる状況となった。大丸も例外ではなかった。バブル崩壊翌年の1992年度、単体の当期純利益は前年度比約50%の減益となり、その後も売上高は低迷、コストは高止まり、最低水準の配当を維持するにも四苦八苦する状態が続いた。さらに不採算事業への貸付金が不良債権化し、毎年、支援資金が大丸本体のキャッシュフローを圧迫するという危機的状況に陥っていた。問題の根幹は、マーケットが大きく変化するなかで、売り手主導から抜け出せないでいる「マーケット対応力の弱さ」と、人件費や施設費などの固定経費が高止まりする「高コスト・低収益構造」にあった。
IRマガジン2005年新春号 Vol.68 野村インベスター・リレーションズ