1867年(慶応3年)12月、明治維新政府が誕生した。政府は紙幣を乱発し、極度のインフレが起こった。そして1882年(明治15年)、これを是正しようとした緊縮政策によって大不況となる。幕末の動乱、維新という大きな変化のなかで、大丸は時代の荒波に耐え切れず、業績は極度に悪化していく。当時の大丸について、従業員のこんな証言が残っている。「大丸の仕入れ担当者は腕利きだが品質一筋で研究ばかりしている。お客さまや販売のことを考えず、仕入れた商品の値打ちがお客さまにわかりにくくても、黙って末永く使っていれば必ずその良さがわかるはずという。例えば縮綿は上染めをして2年ほど経つと色調がよくなるといい、大量に仕入れてから平気で2〜3年寝かしてデッドストックが増えていく」
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| 1910年閉店が決まった江戸店の告別売出し |
こうして窮状が極みに達した1907年(明治40年)、早稲田大学に在学中だった下村家11代当主下村正太郎は京都にあった大丸本店に重役を招集し、経営体質の抜本的革新を断行して経営を立て直すことを表明、そのために大学を中退し自ら陣頭に立つと宣言した。まず行われたのが、個人商店から株式合資会社への改組によって組織の近代化を図ることであった。93万円あった負債を整理するために資産を売却、残った50万円を資本金として、1908年、本店を東京店に移し下村正太郎が社長に就任して、株式合資会社大丸呉服店が発足した。しかしその2年後の1910年、折からの不況のため経費が膨張し、大丸は再び窮地に陥った。そこで本社を京都に移し、江戸店と名古屋店の閉店を決定、江戸店は167年、名古屋店は182年の歴史を閉じることとなった。またその少しあと、顧客の要望に応じてそのつど奥から商品を取り出して見せる座売りと呼ばれる販売方法から、ショーケースを使った陳列販売に切り替えて、近代的百貨店としての基礎固めも行われた。
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| 1914年に大阪で初めて登場した大阪店のショーウインドー |
諸策が功を奏し、1919年(大正8年)には年間売り上げが1,000万円を突破して再建の手がかりが見えてきた。その矢先、翌1920年に大阪店が失火により全焼、この時点で大丸は同族経営を脱して株式会社に改組することを決定し、同年4月16日、資本金1,200万円の株式会社大丸呉服店が設立された。
大阪店は1922年に第1期工事が竣工、近代ルネサンス式の鉄筋コンクリート6階建て、婦人子供服、台所用品、洋家具、茶器なども陳列に加わって、本格的な百貨店としてスタートを切った。1928年6月には、呉服以外の取り扱いのほうが多くなってきたため、商号を「株式会社大丸」と改めた。
IRマガジン2005年新春号 Vol.68 野村インベスター・リレーションズ