先駆者たちの大地

株式会社大丸

1717〜1743年 革新的な経営

百貨店業界が低迷して久しい。話題に上るのはもっぱら地下の食品売り場、通称デパ地下ばかり。着飾って出かけるハレの場であったのは遥か遠い日のこととなってしまった。専門店や安売り店が増え、何かを買おうとする時、目的に応じてそうした店を使い分けることができる。そうした店に比べると、百貨店が私たちに提供してくれるものは見えにくい。百貨店はこのまま時代から取り残されてしまうのだろうか。
ここに進化論で知られるダーウィンの言葉がある。
「この世に生き残る生き物は、最も力の強いものか。そうではない。最も頭のいいものか。そうでもない。それは変化に対応できる生き物だ」
この言葉を胸に変革に乗り出したのが、大丸の現代表取締役会長兼CEO・奥田務である。

大丸屋江戸店の浮世絵の写真
安藤広重が描いた大丸屋江戸店。
1743年(寛保3年)、江戸の大伝馬町(現在の日本橋小伝馬町付近)に開店した。江戸を代表する大店として繁盛し、浮世絵にもしばしば登場した

大丸の歴史は、1717年(享保2年)、京都伏見の古着商の家に生まれた下村彦右衛門正啓が、伏見に呉服店「大文字屋」を開いたことに始まる。この時、正啓は、店のしるしとして○に大の文字が入った商標を採用した。○は天下を表し、大は人と一を組み合わせたものとして、このしるしは天下一の商人になろうという心意気を示したものであると大丸では伝えられている。「大文字屋」の人気は上々で、9年後の1726年(享保11年)には大阪の心斎橋に2号店を出店、続いてその2年後、1728年には名古屋に出店した。この名古屋店で初めて、商標にちなんだ「大丸屋」という屋号を使用している。名古屋店出店の翌年、1729年、大阪、名古屋の繁栄に呼応して京都に仕入れ店を設置、仕入れ担当者を常駐させ、問屋などの仲介を廃して直接仕入れを行うようになった。今でいうところの本部集中仕入れ、セントラル・バイイングである。

大阪店の浮世絵の写真
創業9年後の1726年に開店した大阪店
大丸名物の借傘の浮世絵の写真
江戸時代の役者絵に登場するほどメジャーだった大丸名物の借傘

そして1743年(寛保3年)、江戸の大伝馬町(現在の日本橋小伝馬町付近)に江戸店を開店した。進出計画は、開店の7年前である1736年(元文元年)から開始され、開店5年前の1738年(元文3年)に、正啓は江戸の同業者を訪ね、取引を約束して京呉服を送った。その荷物のなかに、○に大文字の商標を白く染め抜いた萌黄地の派手な風呂敷が何枚も同梱されていた。大きく便利な風呂敷だったため、取引先の使用人たちはこの風呂敷を頻繁に背負って歩き、やがて江戸の町々で大丸屋の名前が知られるようになった。こうして大丸屋江戸店開店は江戸中で大きな評判になった。
正啓の商売のなかでPRとサービスは大きなポイントなのだが、江戸店開設の際にも新しいサービス「大丸借傘」が開始された。店の客だけでなく、にわか雨に困る通行人にも大きな商標のついた傘が貸し出された。このサービスは江戸店から全店に拡大されて継承され、明治の終わり頃まで大丸の名物となっていた。
PR手法のアイデアだけでなく、正啓の商売は最初から革新的だった。大文字屋の創業当時、支払いは半年または1年計算の掛け売りが主流であったが、正啓は大阪出店と同時に「現銀掛け値なし」の商いを始めた。掛け値とは利子を含めて実際の売り値より高くつけた値段のこと、また大阪では通貨が銀だったため現銀とは現金のこと。つまり現金で定価販売することを意味している。店としては資金の回転が早くなり、それだけ安く売ることができるため、客にとってもメリットが大きい。また小口買いができるようになったため、顧客層は富裕層から一般大衆に広がり、マーケットはしだいに拡大していった。

こうした正啓の先進的な経営の中核にはひとつの哲学があった。それが「先義後利」である。この言葉は、中国の儒学の祖のひとりである荀子の「栄辱篇」のなかに出てくる「義を先にし、利を後にする者は栄える」という節から引用したもので、現代の言葉で言い換えれば「顧客第一主義」ということである。すべての経営活動をこの精神を根本理念として統合する、いわばコーポレート・ガバナンスをこの時代に取り入れていたという意味で、これは革新的な経営手法であったといえる。この言葉は大丸の精神の根本となり、現在も企業理念として受け継がれている。
こうして大丸は数々の革新的な経営で庶民の支持を得て、江戸期には日本を代表する大店として繁盛していた。しかし、時代は大きく変化しようとしていた。

IRマガジン2005年新春号 Vol.68 野村インベスター・リレーションズ